第二話 帰れない少女
「付き合いなさい」
東雲夜月は、そう言った。
午後九時過ぎ。
路地裏で酔っ払い三人を蹴り飛ばした直後のことである。
神崎悠真は、目の前の美人霊媒師を見ながら、数秒ほど固まった。
「……どこに?」
「現場」
「現場って?」
「怪異が出てる場所」
「帰っていいですか?」
「だめ」
即答だった。
悠真はため息をついた。
どうしてこうなった。
ついさっきまで、自分はただ仕事帰りにコンビニへ寄ろうとしていただけだった。
それが、なぜか絶世の美女に怪異現場へ連れて行かれようとしている。
普通なら喜ぶべき状況かもしれない。
だが、相手は酔っ払い三人を一瞬で倒す女である。
喜ぶより先に、命の心配をするべきだった。
「そもそも俺、怪異とか信じてないんですけど」
「知ってる」
「じゃあなんで連れて行くんですか」
夜月は悠真を見た。
その目は相変わらず冷たい。
けれど、どこか不思議そうでもあった。
「あなたが、変だから」
「初対面からずっと失礼ですね」
「事実よ」
「事実でも言っていいことと悪いことがあると思います」
夜月は答えず、歩き出した。
悠真は少し迷った。
帰ることもできた。
いや、普通なら帰る。
怪異だの霊媒師だの、まともに信じる方がおかしい。
けれど。
彼女の声には、不思議な重みがあった。
ふざけているようには見えなかった。
それに、なぜか放っておけなかった。
「……分かりましたよ」
悠真は小さく息を吐き、夜月の後を追った。
向かった先は、駅から少し離れた古いアパートだった。
築三十年ほどの二階建て。
外壁は薄汚れ、階段の鉄はところどころ錆びている。
見覚えがあった。
「ここ……うちの会社が管理してる物件だ」
夜月が振り返る。
「そうなの?」
「はい。確か、最近入居者から相談が来てました。夜中に足音がするとか、子供の笑い声がするとか」
「それ」
「え?」
「それが今回の怪異」
悠真は思わず眉をひそめた。
「いや、でも古い建物ですから。足音くらいしますよ。配管の音とか、隣の部屋の生活音とか」
「違う」
「断言するんですね」
「見れば分かる」
「俺には見えませんけど」
夜月は何も言わなかった。
ただ、アパートの二階を見上げた。
その表情が、ほんの少しだけ変わる。
冷たい顔ではない。
誰かを見つめるような、静かな顔だった。
「いるわ」
「……誰が?」
「女の子」
悠真は二階の廊下を見た。
蛍光灯がちかちかと点滅している。
錆びた手すり。
薄暗い廊下。
それ以外には何もない。
「誰もいませんよ」
「いる」
夜月は階段を上がった。
悠真も後に続く。
二階の一番奥。
203号室。
そこが問題の部屋だった。
夜月が鍵を取り出す。
「鍵、持ってるんですか?」
「管理会社から借りた」
「うちの会社、そんな簡単に貸しました?」
「事情を話したら貸してくれた」
「どんな事情を話したんですか」
「霊障」
「貸すなよ、うちの会社……」
夜月は構わず鍵を開けた。
扉がゆっくりと開く。
中は空室だった。
六畳の部屋。
小さなキッチン。
古びたユニットバス。
カーテンのない窓から、街灯の光が差し込んでいる。
空気が妙に冷たかった。
「寒いな……」
悠真は腕をさすった。
六月の夜とは思えない。
「窓、開いてます?」
「閉まってる」
「じゃあエアコン?」
「電気は止まってる」
「……古い建物だからですかね」
夜月はため息をついた。
「あなた、意外としぶといわね」
「現実的と言ってください」
その時だった。
こつん。
小さな音がした。
悠真は振り返る。
誰もいない。
こつん。
また音。
廊下ではない。
部屋の中。
まるで小さな足音のようだった。
「……今のは?」
「その子」
「いや、床鳴りかもしれない」
こつん。
こつん。
音は部屋の隅から窓際へ移動した。
悠真は黙った。
夜月はゆっくりと窓際へ歩いていく。
そして、何もない空間の前で膝を折った。
しゃがみ込む。
目線を低くする。
悠真は眉をひそめた。
「何してるんですか?」
夜月は答えなかった。
ただ、そこにいる誰かへ向かって、驚くほど優しい声で語りかけた。
「こんばんは」
悠真は息を止めた。
さっきまで自分に向けられていた冷たい声とは、まるで違っていた。
柔らかくて。
静かで。
怖がらせないように、慎重に触れるような声。
「怖がらなくていいわ」
夜月は微笑んだ。
「私は、あなたを傷つけに来たんじゃない」
悠真には何も見えない。
窓際には誰もいない。
それなのに夜月は、確かに誰かと向き合っていた。
「お名前、教えてくれる?」
沈黙。
夜月は急かさない。
ただ待つ。
長い沈黙のあと、夜月が小さく頷いた。
「……そう。美咲ちゃんっていうのね」
悠真は思わず口を開いた。
「本当にいるんですか?」
夜月が振り返る。
「いる」
「俺には何も見えません」
「だから不思議なのよ」
「何がですか」
「普通は、ここまで近くにいれば何かしら感じる。寒気とか、吐き気とか、頭痛とか」
「寒いだけです」
「それだけ?」
「はい」
夜月はじっと悠真を見た。
「やっぱり変」
「またそれですか」
「ええ。何度でも言うわ」
悠真は肩を落とした。
夜月は再び窓際へ向き直る。
「美咲ちゃん」
声がまた優しくなる。
「ここで、誰かを待っているの?」
部屋の空気が、少しだけ重くなった気がした。
悠真の目には何も映らない。
だが、夜月の表情を見れば分かる。
そこにいる何かが、泣いているのだと。
「お母さんを待ってるのね」
夜月は静かに言った。
悠真の胸が、わずかに締め付けられた。
「お母さん、まだ帰ってこないの?」
夜月は小さく息を吐いた。
「そっか。ずっと待ってたのね」
悠真は耐えきれずに言った。
「除霊……しないんですか?」
夜月の肩が少しだけ動いた。
「どうして?」
「いや、幽霊なんですよね」
「だから?」
「危ないんじゃないですか。実際、入居者も怖がってるし」
夜月はゆっくり振り返った。
その目は冷たくなかった。
けれど、真剣だった。
「この子は、誰かを傷つけようとしているわけじゃない」
「でも」
「泣いてるだけ」
夜月は言った。
「死んだからって、人じゃなくなるわけじゃない」
悠真は何も言えなかった。
「怖い姿になっても、声が届かなくなっても、そこにある想いは消えない」
夜月は窓際を見つめる。
「悪霊なんていない」
その言葉は、静かだった。
けれど、はっきりとしていた。
「苦しんでいる魂がいるだけ」
部屋の中が静まり返る。
遠くで車の音が聞こえた。
夜月はまた、美咲に向き直る。
「私はあなたを消しに来たんじゃない」
優しい声だった。
「あなたが帰れるように、話を聞きに来たの」
悠真はその横顔を見ていた。
酔っ払いを蹴り飛ばした人間と同じとは思えない。
強引で。
口が悪くて。
何を考えているのか分からない。
でも今の夜月は、ただ一人の女の子のために、全てを注いでいるように見えた。
それから二人は、美咲の母親を探すことになった。
悠真は半信半疑のまま、会社の管理資料を確認した。
過去の入居者記録。
退去時の書類。
緊急連絡先。
そこに、美咲の母親らしき名前があった。
数年前、この部屋には母娘が住んでいた。
娘は病気で亡くなっていた。
母親はその後、部屋を引き払い、別の町へ移っている。
「本当にいたのか……」
悠真は資料を見ながら呟いた。
夜月は当然のように言う。
「言ったでしょう」
「でも、偶然って可能性も」
「まだ言うの?」
「信じきれないんですよ」
「頑固ね」
「普通です」
夜月は少しだけ笑った。
「そういうところ、嫌いじゃないわ」
「褒められてます?」
「たぶん」
「たぶんって」
翌日。
悠真と夜月は、美咲の母親と会った。
母親は最初、怪しんでいた。
当然だ。
突然見知らぬ男女が現れて、
亡くなった娘がアパートで待っている。
そんな話を信じろという方が無理だった。
けれど、夜月は静かに話した。
美咲が窓際で待っていたこと。
母親の帰りをずっと待っていたこと。
最後に会えなかったことを、寂しがっていたこと。
母親は最初、怒った。
次に震えた。
そして最後には泣いた。
「ごめんね……」
夜。
三人は203号室に戻った。
母親は窓際に膝をついた。
悠真には、やはり何も見えなかった。
だが、母親の震える声だけが部屋に響いた。
「美咲……ごめんね」
夜月は黙って見守っている。
「お母さん、間に合わなくてごめんね」
母親の涙が床に落ちる。
「ずっと一人にして、ごめんね」
その時。
部屋の空気が変わった。
冷たかった空気が、少しだけ柔らかくなる。
こつん。
小さな足音。
母親が顔を上げる。
「美咲……?」
悠真には何も見えない。
何も聞こえない。
それでも、なぜか分かった。
そこにいる。
母親の目の前に、きっと小さな女の子がいる。
夜月はそっと微笑んだ。
「美咲ちゃん」
その声は、今までで一番優しかった。
「もう、大丈夫よ」
母親は何度も謝り続けた。
何度も名前を呼んだ。
やがて、窓際に差し込む街灯の光が、ほんの少しだけ揺れた。
夜月が小さく手を振る。
「いってらっしゃい」
悠真は何も見えなかった。
ただ、母親がその場に崩れ落ちるのを見た。
そして夜月が、静かに目を閉じるのを見た。
しばらくして、部屋の冷たさは消えていた。
帰り道。
悠真と夜月は並んで歩いていた。
「終わったんですか」
「終わった」
「何が?」
「全部」
「意味分からないです」
「そのうち分かるわ」
「いや、分からないと思います」
夜月は小さく笑った。
悠真は夜空を見上げる。
まだ信じきれない。
幽霊なんて見ていない。
少女の姿も、声も、何一つ分からなかった。
それでも。
あの部屋の空気が変わったこと。
母親が泣き崩れたこと。
夜月が確かに誰かへ語りかけていたこと。
それらを全部、ただの偶然で片付けるには、少しだけ無理がある気がした。
「東雲さん」
「夜月でいい」
「じゃあ、夜月さん」
「さんはいらない」
「距離感おかしくないですか」
「面倒だから」
悠真は苦笑した。
「夜月」
「何?」
「あなたは、いつもああやって霊と話すんですか」
夜月は少し考えてから答えた。
「話せる相手なら」
「話せない相手なら?」
「止める」
「物理で?」
「必要なら」
悠真は昨日の回し蹴りを思い出した。
「霊媒師って大変なんですね」
「あなたが思っているよりは」
夜月はそう言って、ふと立ち止まった。
視線が悠真の背後へ向く。
「どうしました?」
「……別に」
「また変って言う気ですか?」
「ええ」
「言うんだ」
夜月は悠真を見た。
いや。
正確には、悠真の後ろを見ていた。
そこには、悠真には見えない影が立っていた。
巨大な鎧武者。
戦国の亡霊。
大太刀を携えた男。
鬼神丸。
その存在は、ただ静かに悠真の背後に佇んでいた。
まるで主を守るように。
あるいは。
何かを見張るように。
夜月は目を細める。
「あなた、本当に何者なの?」
悠真は首を傾げた。
「普通の会社員ですけど」
夜月は答えなかった。
ただ、小さく呟いた。
「普通の人間の後ろに、あんなものは立たない」
悠真には、その言葉の意味が分からなかった。
けれどこの夜から。
神崎悠真の平凡な日常は、静かに形を変え始めていた。




