第四十二章 残された簪 【後編】
夜叉月も、最初からこの男の正体に気づいていたわけではない。
なぜなら目の前の黒衣からは、どういうわけか、いつものように内に連れていた鬼の気配が綺麗さっぱり消え失せていたからだ。普段はあまりに鬼気が強いため、それが隠されると他の人間と大して変わらず、すぐには見分けがつかなくなってしまうのだ。
だが、真尋の本能であろうか、輪廻の鎖石だけがその異変を敏感に察知し、警告を発したのだ。
「……お前も懲りない男だな。飽きずに真尋を狙いに来たか」
「くっくっく……それが、あの方の望みだからな」
夜叉月は童子切の柄に手をかける。隣で天翔も背負っていた大太刀を抜き出した。
「間の悪い奴らやなぁ!今俺ら旅行中やねん!楽しい旅の終わりに、邪魔せんでくれる?」
「……そうか。なら、好都合というものだ」
黒衣が薄気味悪い笑みを浮かべたまま、にやりと嗤う。そのやけに余裕で、こちらを嘲笑うような口調に、夜叉月は目を細めた。
「あななたたちがそんなに旅行好きだとは知らなかった。ならばこれは、私からの贈り物だと思って受け取ってくれ」
「は?何のことやねん……」
夜叉月は、黒衣の行動に拭えない違和感を覚えていた。
そもそも鬼気の消えた今の黒衣はただの人間。丸腰で夜叉月たちの前に現れて、こちらに刀を向けられれば、一溜まりもないはずだ。ただの斬られたがりの変態ならば、話は変わるが……
「……おい。お前の中の、鬼はどうした」
夜叉月が低い声をかけると、黒衣はにたついた表情を、待っていたとばかりに輝かせた。
だが黒衣の返事を待たずして、夜叉月の脳裏に最悪な可能性が電撃のように走り抜けた!
―――ちゃり……。
夜叉月の脳内に小さく硝子の擦れ合う音が響く。その瞬間、推測が確信へと変わった。
これは―――簪の……!!
その刹那―――夜叉月は全身の毛が逆立つような鬼気を爆発させ、大地を揺らし、瞬く間にその場から姿を消した。
絢の簪の微かな気配をたどり、瞬時に空間を飛び越え、ごぉっと唸る風とともに降り立った。そこは先程絢たちと分かれた茶屋のすぐ近く、人目につかない薄暗い路地裏の一角だった。駅前の喧騒が遠く感じる。
夜叉月の視線の先に、袴の裾を風にはためかせて立つ大柄な男の後ろ姿。下ろされた銀灰色の髪は艷やかで美しく、男がゆっくりと振り返ると、その頬には一筋の大きな古傷が刻まれていた。
「お前だったのか……黒衣に寄生していた鬼は」
「……やけに……遅かったな」
目の前の鬼への警戒を解かぬまま、周囲を目線だけで素早く探る。そこへ、背後から切迫した声が飛んできた。
「夜叉月!絢姉ちゃんが……連れ去られたっ……!」
振り返れば、小春が半妖の姿で髪や着物を乱し、地に膝をついていた。
小春の手の先に転がっているものを見て、夜叉月の胸の奥が凍りついた。落ちていたのは、硝子の蓮の簪だった。
夜叉月が二本指を立て印を結ぶと、簪がゆっくりと宙に浮かび上がり、さらに手を握ると次の瞬間にはその簪が夜叉月の手の中で揺れていた。二本目のそれを夜叉月は丁寧に汚れを拭い、帯の結び目に挿した。
この場に来る直前、簪の揺れる音がした。以前絢に伝えたように、彼女はこれを揺らして自らの危機を知らせたのだ。だがすでに絢はいない。……間に合わなかった。
「絢を返せ」
「もうここにはいない」
「連れ戻せ」
「ならお前も……真尋を渡すんだな」
夜叉月は言葉の代わりに、片手を前方に突き出した。
ゴォォォっという地鳴りとともに、鬼の方へ暴風が押し寄せた。風を受けた周囲の木々が青い炎に包まれ燃えていく。
鬼が、いつのまにか呼び寄せたらしい黒衣を庇うように一歩前に立つと、唸りを上げる風をいとも簡単に払い除けていた。
「邪悪な鬼が。そんな人間を庇うのか?」
「羅刹が何を言う。この男は大事な器だ。燃やされちゃ困る」
「くくくっ!実に愉快!茨城様、あの者たちに、贈り物を差し上げましょう」
夜叉月の眉が密かにぴくりと反応する。
「旅が好きなんだろう?せいぜい楽しんで探すといい。愛しい、天女の魂を―――」
夜叉月は童子切を鞘から一気に引き抜き、地を蹴った。蒼月を召喚し、軌道すら追えぬ疾さで蒼月とともに突き進む。
蒼月が歯をむき出しにして咆哮し、夜叉月の振るう刀身が鬼の首筋を正確に狙う!
鬼が大きく広げた掌の前方に、爆発的な衝撃波が放たれた。その爆風は、鬼を中心に広がり、周囲を包囲していた炎を打ち消していく。
その衝撃に夜叉月と蒼月はそろって僅かな足止めをくらった。そのまま突き進もうとした時、背後の小春が小さく悲鳴を上げた。
切っ先を鬼たちに向けたまま夜叉月が振り返ると、目の前に勢いよく人影が降ってきた!天翔だ!
彼は真っ直ぐに小春の傍へ降り立つと、彼女に覆い被さるようにして爆風を回避した。波が一つ越えたところで、すかさず小春を脇に抱きかかえて大木の陰へと移動していく。
夜叉月は再び鬼たちを冷徹に見据えた。
「あぁ……お前が茨木童子か。封印を逃れた酒呑童子の右腕。……何かおかしいと思っていたんだ。何故お前がこれほで長く存在できているのか」
ただの鬼に永遠の命などない。せいぜい人間より百年ほど長いくらいだ。それがこの鬼は、数百年前最後にあったときと見た目もほとんど変わらずに目の前に現れた。
「自らを封印していたのか。人間たちの器の中で」
人間に寄生し、そこで自らに術をかけ封印を施して時を止める。そして、その者が亡くなる頃に起きて、新たな器を見つける。そうして人間の身体を転々としながら生き長らえていたのだろう。
「敵ながらものすごい執着心だな。感心する」
「漸く時が満ちた。この時をどれほど待ち望んでいたか」
茨木童子が空をぼんやりと見上げている。その視線がゆっくりと下がり、瞳が夜叉月を捉えた。その色は、悪鬼とは思えないほどに濁りなく純粋な色を秘めている。
「まだお前の期待通りにいくとは決まっていないぞ」
「いや……あのお方は必ず復活する。あのお方がそう言えば、必ずそうなるのだ。例えお前一人、どう足掻こうが……決められた宿命には、抗えん」
茨木童子の瞳に一線の光が走る。
夜叉月が童子切にさっと霊力を込めると、切り裂く閃光の刃が刀身を飛び出した。
同時に夜叉月も地を蹴って前へ弾き飛ぶ。
光の刃は、刀身の形のまま飛去来器[ブーメランのこと]のように、くるくると回って大きく飛んでいき、巨大な円を描きながら鬼どもの背後に突進していく。
前方には、夜叉月の童子切が茨木童子の目と鼻の先に迫った刹那―――黒衣と鬼の足元から円状の黒い光線が立ち上がり、鬼たち二人を囲むように急激に輝きだした。
鬼たちを斬り刻もうと轟音とともに背後を走っていた光の刃は、黒い光線の障壁に激突するやいなや、眩い光の屑となって粉々に砕け散った。
光の壁は激しい渦を巻き、茨木童子と黒衣の姿を、瞬く間に飲み込んでいった。
すぐさま奴らの気配を探すが、すでに近くには感じられない。逃走の経路まで周到に準備されていたのだ!
これは厄介だ。
印を結んでもう一度集中し、今度は絢の気だけに意識を集中させ、捜索範囲を一気に広げる。夜叉月のこめかみに青筋が浮かび上がった。
どれだけ範囲を広げても絢の気配にたどり着けない。今探っている範囲の外にいるのか。それとも強力な術で彼女の存在を完全に隠しているのか。
頭の神経が焼ききれそうになり、一度術を解いた。
「夜叉月、大丈夫か?!すごい汗やで!」
天翔が声を上げて駆け寄ってくる。
「俺のことはいい!手伝え!絢を探してくれ……っ!」
「お、おう」
夜叉月は眉間に皺を寄せ、再びきつく目を閉じる。夜叉月はついに関東全域の霊脈を網羅するほどに意識を拡大したが、全く網にかかりもしない。
集中しすぎて呼吸を忘れていた肺が痛烈に空気を求め、冷気が体中を駆け巡る。呼吸を整えながら、帯元に揺れる二本の簪を見つめた。
とにかく虱潰しに探そうと、空間を飛ぶための印を結ぶ。すぐに夜叉月の身体が光を纏い始めたところで―――天翔に後ろからガシッと腕を回され羽交い締めにされた!
術が乱れ、夜叉月の纏った光が消える。
「待て待て!どこ行くねん!当てなんかないんやろ!当てなく見つけんの大変やって知ってるやろが、落ち着け」
「落ち着いていられるか!」
「大丈夫や!俺も予知の法見られんねん!こっちは絢とお前の光は掴んどる」
夜叉月は指先に霊力を込めて、天翔の腕を力付くで振り払おうとしていたが、最後の言葉を聞いて動きを止める。荒く呼吸を繰り返しながら、目を見開いて天翔を見た。
「……は?」
「ともかく、一度浅草へ戻るで!おっちゃんや夕澄たちにも知らせんと!」




