第四十二章 残された簪 【前編】
「とってもいい匂い!!焼き立てふわふわ!全部美味しそう!!」
「せやせや!種類も多いし、たくさん買ってこ!」
目の前には大きな硝子ケース。その二段になった棚に、食パン、ロールパン、クリームパンに様々な果実のジャムパンなど、目移りするほど多彩なパンがずらりと並べられている。
今朝、四人は宿を後にすると再び人力車に乗り込み、雪深い山道を下り抜け、一行は再び宮ノ下へと降り立った。
夜叉月は、小春との約束を果たすべく、昨日絢と一緒に見上げた西洋風のホテルへと三人を連れてきたのだ。
敷地内にある併設の販売所からは、香ばしく焼き上げられたばかりのパンの芳醇な香りが周囲に漂っている。
夜叉月が以前客から得た情報によれば、このホテルでは外国人客のために専門のパン職人を呼び寄せ、本格的な西洋パンを毎日焼き上げているらしい。今や旅の土産としても大変な人気なのだそうだ。
女中は硝子ケースの上に盆を置き、小春と天翔が指名するパンを次々と乗せていく。小春は甘そうなパンを片っ端から選んでいるようだ。
「絢姉ちゃん、これ見て!幻の餡パン!!」
「え?あら!本当!」
小春が指差した先には、桜の塩漬けが上品にあしらわれた餡パンがあった。丸い形のいいパンの真ん中にちょこんと添えられた桃色が可愛らしく、絢と小春はすっかり目を奪われている。
この桜の餡パンは、以前銀座のとある店が明治天皇に献上して大層お気に召され、以来一世を風靡しているという代物だ。
二人はすかさず餡パンを注文に加え、盆の上にはあっという間に四つの餡パンが載せられた。
盆の上はすでに山盛りになっており、それ以上乗せるにはかなり技術を要するほどだが、女中はやたら器用に載せていく。
一人の女中がホイホイ載せる横で、もう一人がせっせと紙に包んでいた。
「小春に買ってやるとは言ったが、お前にも買うとは言っていない」
「堅いこと言わんで、お願いします!」
そう言いながら、遠慮という言葉を持ち合わせない天翔に、じとりとした視線を投げる。
一方の絢は、真剣な眼差しで吟味しながら選んでいた。
「夜叉月はどれがいいですか?色々買って、あとで半分こしましょう」
「私は、絢が食べたいものを」
「あっ! お父さんやお兄ちゃんにもお土産に!」
「あぁ、そうしよう」
買い求めたパンの山を天翔が風呂敷に包んで背にひっかけた。
ここ最近の夜叉月は、楽しい時間があっという間に過ぎるという感覚を知った。
やがて帰路につき、四人は往路と同じ道を戻って、小田原停車場へと辿り着いた。
駅舎の周辺は、宿場町特有の活気ある賑わいに包まれている。木箱を首から下げた売り子たちが声を張り上げ、小田原名物の蒲鉾や梅干し、旅弁当などを売っていた。行きには大して気にも留めなかった景色だったが、旅の終わりが近づいていると思うと、同じ風景すらどこか名残り惜しく感じられるというものだ。
夜叉月が見渡すと、駅前にハイカラな茶屋があった。
「絢、小春、山下りで疲れただろう。私たちが切符を手配してくるから、そこの茶屋で温かいものでも飲んで待つといい。荷物も預けてくるから、置いていけ」
「わぁーい!行こう、絢姉ちゃん!」
小春は自分と絢の荷物を夜叉月にどさっと押し付けると、絢の腕を取って茶屋へと一目散に駆けていく。
絢は一度だけ振り返り、夜叉月へと微笑んだ。
夜叉月は軽く片手を上げてその後ろ姿を見送ると、天翔とともに駅舎の切符売り場へと向かった。
木製の出入り口の前には乗車券を買い求める人々の長い列ができていた。
「やっぱ人多いなぁ!しばらくかかりそうやな!俺先に手荷物預かりの手続きしてくるわ」
「あぁ、頼んだ」
行きとは異なり、帰りは旅の土産物ですっかり大荷物となってしまった。天翔がそれらを両手に抱えて運んでいく。
夜叉月はようやく四枚の木札を受け取ると、人の波を抜けて天翔と合流した。出発まではまだ少し時間がありそうだ。
「そこの旦那方。ちょっとお尋ねしてもよろしいでしょうか……」
不意にかけられた低い声に、夜叉月と天翔は揃って足を止め、声の主の方へと振り返る。
そこには、つばの大きな山高帽子を深々と被った、身なりの良い紳士が立っていた。長い外套を華奢な身体に纏い、いかにも困りきった様子でこちらに歩み寄ってくる。
「お?なんや、おっちゃん。どないしたん」
「えぇと、これから新橋行きの陸蒸列車に乗るのですが……やはり上等席は混み合っておりますでしょうか?お恥ずかしながら、当方こういった旅に不慣れなものでして……」
「おっちゃんも新橋?俺等もやねん。まぁ混み合ってはおっても、まだ大丈夫やと思うで。なぁ、夜叉月」
「……あぁ」
「なんと、旦那方も新橋へ?これは奇遇ですな」
男は心底安心したような笑みを浮かべた。
「これも何かのご縁ですし、おければそこの待合所で、珈琲でもご馳走させてください」
「ええの?じゃあ遠慮なく……」
そのとき、夜叉月の胸の奥が、締め付けられるようにわずかに疼いた。
真尋か……? あぁ……そういうことか
天翔が男の後に続こうとしたが、夜叉月は立ち止まったまま動かない。男の背中を視線で捉えたまま瞳を細め、その奥を鋭く光らせる。
「おい……胡散臭い演技はそれくらいにしておけよ」
天翔が勢いよく振り返った。男は足を止めただけでこちらを見ない。少しすると、男が肩を震わせ始めた。
「くっくっく……やはり、あなたはそこの単細胞の鬼とは違うな」
「あー!!お前、その喋り方!!騙しよって!単細胞って何やねん、馬鹿にしおって」
男が笑い始めると、その声は先程までの穏やかで低い老紳士のものとは異なり、耳障りな高めの声へと変わる。男が外套をはためかせ身を翻すと、洋装に身を包んだ紳士が瞬く間に姿を変え、やせ細った青白い不気味な笑みの男―――黒衣が現れた。




