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第四十一章 絢が欲しいもの 【後編】

 夜叉月はその足ですぐに絢のもとを訪ねた。幸いにも本格的に女二人の雪見酒が始まる前だったので、落ち着いて話ができそうだった。


「小春、悪いな。少しだけ絢を借りていくぞ」

「明日、美味しいパンをたくさん買ってくれればいい」

「……もちろんだ」


 そのままクスクス笑う絢の手を取り、宿の一角にある、庭園を一望できるサロンへと連れてきた。

 

 和の旅館でここだけ西洋の文化が持ち込まれたような空間で、上質な赤絨毯にソファが並び、部屋の隅には大きな暖炉で薪がぱちぱちと音を立てて燃えている。


「昼間、小春たちがここへ来たそうです。私も来てみたかったので、嬉しいです」

「そうか」


 夜叉月は微笑みながら絢の手を引いて、庭園に面したの卓のソファに並んで腰かけた。絢がすぐさま大きな硝子窓に片手を添えて、じっと外の雪景色に見入る。


「これだけ近いと、なんだか外で直接雪を見ているようですね」

「そうだな」


 夜叉月は一緒に外を眺めるふりをして、実際には硝子に映った絢の表情ばかりを見つめていた。


「何か飲み物でも頼むか?」

「そうですね。……じゃあ、ミルクティーが飲みたいです!小春が絶賛していたの」

「それは気になるな。私も同じものにしよう」


 しばらくして、湯気とともに西洋の白磁のカップが二つ運ばれてきた。甘く芳醇な香りを楽しんでから、まずは絢がそれを一口飲む。


「はぁー。これは、身体の芯から癒されますね」


 片手を頬に当て、絢が幸せそうな笑みを浮かべた。それを確認してから、夜叉月もミルクティーを口に含んでみる。確かにこれは、不思議と心が解きほぐされていくようだ。

 夜叉月は十分に心を落ち着かせたところで、カップを置いた絢の手をそっと包みこんだ。


「絢……私に挽回の機会をくれないか?どうか……諦めないでほしい……」

「えっ……諦める?ええと、そうではなくて。私の望んでたものというのは、あなたの安心よりも大事なものではないと言う意味で……!ごめんなさい、私……あなたを困らせてばかりですね」


 絢が申し訳なさそうに眉尻を下げてこちらを見上げた。

 絢にそんな顔をさせるつもりはなかったので、夜叉月は慌てて首を横に振る。


「ち、違う。……ただ、謝りたくて。絢が望んでいる言葉を、私はまだ伝えることができないんだ。何と言えばいいか……私には……その言葉の意味を、この千年かけても理解できていない」


 絢は少し驚いたように、小さくまばたきを繰り返した。


 ―――そうだ。

 昔、普賢菩薩に諭されたときも、理屈ばかりを並べて「愛」を否定し、酒呑童子が語る情念すらも理解しようとせず、ここまできてしまった。


「ふふっ。c私のために一生懸命考えてくれて、ありがとうございます。……私も大概、面倒くさい女でしたね」

「そんな風には思っていない!」


 そこは迷うことなく否定する。絢が悪いのではない。千年も生きながら、そんなことすらまともに分からない自分が、ただひたむきに情けなかった。


「最初は、ほんの悪戯のつもりだったんです。あなたが人間の女心を、よく分かっていないのも承知の上で……。でも、夜叉月はきっと真剣に考えてくれるのだと思って。それが嬉しくて」

「真剣には……考えたのだけれど……」

「ふふっ。もちろん分かってますよ。ただ本心を言えば……私は……あなたからの『約束』のようなものが、欲しかったのかもしれないです。あなたにとって約束というものが、どれほど大切なものか知っているからこそ……『あなたからの』特別な約束を欲してしまいました。強欲ですね」


 やはり難解だ。「愛」とは「約束」なのだろうか。それはよく分からない。けれど一つだけ分かった。

 ―――絢もまた、「特別」が欲しかったのか。


「絢のことは何より大事に思っている」

「ふふっ。知っていますよ」

「絢は、私の『特別』が欲しい?」

「んー……そうですね。でも、私がすでにあなたにとって、十分すぎるほど特別だということも、分かっています」

「私は、絢の『特別』が欲しい……」

「え?」

「絢は私のことを大切に思ってくれている。でも小春のこともそうだし、絢が心を砕く相手は他にもたくさんいるだろう? それを嫌だと言っているわけではないんだ。それは絢の魅力で、そんなあなただからこそ皆慕う。でも……」


 絢が温かな眼差しで耳を傾けてくれている。その優しさに甘えてしまったのだろうか。これまでは口にするまいとしていた言葉まで、次々と零れ落ちていく。 


「でも私は……あなたの唯一になりたい」


 本当に、何を口走っているのだろう。これではまるで「私のことだけ大切にしてくれ」と駄々をこねる子どもと同じではないか!―――完全に器の小さい男丸出しだ!


 急激に顔に熱が集中していく。恥ずかしさの余り、夜叉月は片手で顔面を覆って項垂れた。


「……今のは無しだ。忘れてくれ」


 すると絢が、夜叉月の空いていた方の手に指を絡めてきたので、夜叉月は跳ねるように顔を上げた。


「そんな本音、嬉しくて……忘れられるわけがないです。それに……『同じ』では、ないですよ?」

「絢……?」

「やっぱり、私が不安にさせていたんですね」

「違っ……」

「当然ですよね。あなたは、長い間一人罪を背負い、戦い続けてきたんですから。分からないのも、何ら不思議ではないです」


 絢が自分の頭をこてんと夜叉月の肩に預けてきた。高鳴る心音が、この静かな空間に響いてしまう気がした。

 外に目を向けると、灯籠(とうろう)の柔らかな光の中を舞い落ちる雪が、先程よりも一層幻想的に見えてくる。


「私は小春のことも、とても大事です。あなたのことも。ただ、同じではないです。……教えてあげます。私があなただけに感じている、この胸の内を」


 絢が人差し指をそっと自分の口に当て、目を細めて夜叉月を見つめた。その瞳には外の灯籠の灯りが優しく宿っている。

 絢の声が、夜叉月の胸の内の凍てついた何かを溶かしていく。


「夜叉月は運がいいですね。今日は特別ですよ?」


 絢が姿勢を正し、再びカップを両手で持ってミルクティーを一口飲んだ。

 上品なその仕草に見惚れながら、夜叉月は彼女の紡ぐ言葉を息を殺して待った。


「そうですね、何から伝えましょう。……夜叉月と会える前日の夜は、いつも心がそわそわして、落ち着きません。夜叉月とふと目が合うと、それだけで胸が高鳴ります。夜叉月に触れられたところは、不思議と熱を帯びてしまうんです」


 一言一言を大切にするように言葉を紡いでいく。


「傍にいればもっと近づいて触れたくなります。会えない日は、あなたのことばかり考えてしまいます」


 胸を打たれたような感覚だった。夜叉月は息を呑んで、溢れてくる切なさを必死に押し留めた。


「小春にはいつか誰かと幸せになってほしいと思いますが……夜叉月のことを幸せにするのは、私でありたいと思います。小春を想う気持ちも、あなたを想う気持ちも、どちらも確かに『愛』ですが、決して同じではありません。いろんな愛があって、どれも特別で……。ふふっ。あなたへの愛は、満足できるものでしたか?」


 夜叉月はもはや胸がいっぱいで、言葉を返すことすら出来ない。すると絢は優しい目をさらに細めて、愛おしそうに微笑んだ。


「これが……私が愛してやまない、あなたへの想いです」


 もう。言い訳の余地などどこにもなかった。

 とてもいい尽くせない想いが堰を切ったように溢れ出す。

 この気持ちに名があったとは。これこそが―――


「愛……か……」


 愛とは、そういうものだったのか。あなたを大事に思っていること、あなたに日々感じていること、これ自体が「愛」なのか。

 なんだ。理解してしまえば、何も難しいものではなかった。もうとっくに自分の中にも存在していたんだ。


「絢……私も、同じ想いです」

「そうですか。なら、もうそれ以上は何も望みません」

「ありがとう。教えてくれて」


 やっと……伝えられる。


「絢……私はあなたを心から、愛しています」

「ふふっ……なんだか、自分がとても悪い女になったような気分です」


 夜叉月にとっては正真正銘、生まれて初めての愛の告白だった。だが絢は、まるでそれが嬉しくてたまらないといった様子で、やけに楽しげに鈴を転がすように笑っている。つられて夜叉月も自然と笑みをこぼした。


 私は絢の特別だった。誰とも同じではなかった。

 私は愛する気持ちを持っていたし、絢も私を同じように想ってくれていた。

 なんと清々しい気分だろう。全身の隅々にまで心地よい熱が通っていくような、不思議な開放感に包まれる。


 ―――これから存分に、愛したいものを愛し、救いたいものを救おう。

 そう心に決めて、その甘美な幸福感を噛みしめながらミルクティーを飲んだ。


 不思議と、すっかり冷めてしまったはずのその紅茶は、これまで味わったどんな酒よりも、格別に美味かった。


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