第四十一章 絢が欲しいもの 【中編】
それから四人は、絶品料理と美酒を心ゆくまで堪能した。
絢は遠慮がちにちびちびと嗜む程度に抑えていたため、いつも通りの彼女のままだった。それを見て、夜叉月は幾分か安心するのだった。
「はぁー!食った食った!美味かったわー」
「えぇ、とっても……幸せね」
「お腹いっぱい!!でも別腹ある!」
「せやな、じゃあさっそくプリンしよか」
天翔がひょいと立ち上がると、大きな硝子の戸をあける。その僅かな隙間から、暖かい部屋の中に冷気が吹き込んできた。
天翔は外で冷やしてあったプリンの瓶を四つ拾い上げた。
「少し外に出しといただけやのに、こんな冷たくなったわ!」
「あら本当。この箱根の寒さならではですね」
絢が天翔から小瓶を二つ受け取った。
夜叉月は窓際に腰を下ろし、時折外を舞い落ちる雪を眺めながら、絢と約束を交わした日のことを思い出していた。
「ここで食べますか?」
「……ん?」
「プリンです」
絢は微笑みながらプリンの瓶を差し出してくる。
それを受け取って卓の方を見ると、天翔と小春はすでに待ちきれない様子でプリンの口を開け、その美味しさに悶絶していた。
絢もその楽しそうな様子を見てくすりと笑い、そのまま夜叉月の隣に座ってプリンの瓶の蓋を開けた。
「すまない。少し、考え事をしていて……」
「また、遠くに思いを馳せて?……清香さんのことでも?」
不意を突かれた夜叉月は、プリンを運ぶ手が止まった。
絢は目も合わせずに、プリンを掬っている。
「絢、そんな意地の悪い聞き方をしないでくれ。私が考えていることなんて、あなたのことに決まっている」
切実な声でそう告げると、絢は匙を口にしたまま、僅かばかりの視線をこちらに向けてくれた。
「……そうですか。ごめんなさい、冗談です」
「絢、聞いて。私はあなたを不安にさせるような真似は、絶対にしたくない。だからもし、少しでもそう思うことがあったら、すぐに伝えてほしい。『清香ではなく、自分自身を見てほしい』と言った絢の言葉を、私が忘れることはない。そう言われる前から、天翔が呆れる程には、私は絢のことしか考えていないよ」
「……はい。分かっています」
それから絢は、窺うように夜叉月の顔を覗き込んだ。
「夜叉月?なんだか元気がないですか?私のせい?……ごめんなさい」
絢はプリンを匙で掬い取ると、そのまま夜叉月の口元へと差し出した。
「……絢?」
絢は何も言わずに、そのままただじっとこちらを見つめ返して待っている。
夜叉月はプリンを凝視してから絢を見ると、その目は期待に満ちていた。
夜叉月は自分が持っていた匙をそっと瓶の中に戻し、絢の手を優しく掴むと、その匙の上のプリンを口に含んだ。そのまま絢を見上げれば、彼女は満足そうに目を細めた。
「……甘い」
「ねぇ、夜叉月?私は……あなたを不安にしましたか?」
「……」
何と答えれば良いのだろう?
すでに彼女からは、これ以上ないほどの幸福を受け取っているというのに、それがかえって得体のしれない不安を生んでいるなどと……
まるで、まだ起きもしていない天災に怯えているようなものだ。
天翔には「絢を信じている」と豪語しておきながら、実に情けないことだ。
もちろん、信じていないわけでは、決してないというのに。
「……不安ではないと言えば、嘘になる。だが、それは絢のせいではないんだ。私は絢とこうしていられることが今でも夢のようで……もしかしたら本当に、明日には覚めてしまう幻なのではないかと……たまにこうして考えてしまう。でもこれは、絢にはどうしようもないことだろう?」
己の情けない思いを敢えて言葉にしてみると、何故だか少し笑えてくる。
「では、まだ足りないということですね」
「ん?」
「その一抹の不安すら浮かばないほどに、もっとあなたを満たしてあげなければ……とても千年分なんて埋められないでしょう?」
夜叉月は呆気に取られて、大きく目を見開いた。
千年を埋める?
絢はいつだって周囲の者をその優しさですくい上げ、それぞれの心の隙間を埋めていく。
自分はこれまで、それが彼女の無意識の慈悲なのだとばかり思い込んでいた。だが今、絢は自分の口で「千年を埋める」と言ったのだ。
絢が大切に思う者たちの、すべての孤独や隙間をすべて埋めていくつもりだと言うのか?
ならば、千年間もの途方もない隙間を抱えている自分が、最も有利じゃないか?
絢は……「千年」がどれほどのものか、分かっているのか?
……いくらなんでも―――頼もしすぎるだろう!
「ふっ……なんだそれは」
「あ、笑ってくれましたね」
「笑わずにいられるか!絢も大概、めちゃくちゃだ……ははっ」
「兄に、よく言われます」
あの妹想いの変態が、絢に振り回されて頭を抱えている姿が脳裏に浮かび、益々可笑しくなった。
「それにしても……記憶の中で見た夜叉月は、もっと無口な方でした」
「ふっ……あなたを探して千年……会えたら伝えたいことをずっと考え続けていた。ようやく伝えられると思ったら、とても無口ではいられないさ。だってすべてを伝えようとすれば、あなたの寿命じゃとても伝えきれないな」
「でも、一番大事なことは伝えてくれませんね。それが私の望むものですよ?」
……一番大事な……こと?
「不安ではないですが……それでも一度くらいは、あなたから欲しいものなのです」
「それはなんだ?」
夜叉月が尋ねても、絢は優しく微笑むばかりだ。
すると、離れたところから小春はがじとりと呆れた目をこちらに向けてきた。
「……私は、羊羹が『好き』」
「ん?羊羹?突然、何を言っているんだ。はぁ……羊羹なら、帰ったらいくらでも作ってやるさ」
「……そっちこそ、何を言ってるんだ」
小春はこれ見よがしに溜め息をついて、プリンに視線を戻す。
溜め息をつきたいのはこちらの方だというのに……そんな反応をされるとは、心外だ。
「夜叉月……お前、散々絢に言い寄っておきながら……。まさか……いや、いくらなんでもやな。それくらいとっくにな……」
含みを持たせた天翔の言葉だけは妙に腹立たしかった。
一体……なんなのだ!
「絢、こいつ、ほんまそういうの疎い奴やねん」
「そのようですね、あははっ。夜叉月、もう大丈夫ですよ。あなたをそんなに悩ませてまで欲しいものではないんです。ふふっ」
絢が笑い出した。もう何が何だかさっぱり分からない。だがどうやら、自分以外の三人は全員その「答え」を知っているようだ。
絢は「もういいのだ」と言うが、夜叉月は彼女に諦められてしまったことに寂しさを覚え、急激に気持ちが沈んでいく。
夜叉月が悶々と頭を悩ませているうちに、折角絢と食べたプリンの甘さも、すっかり感じられなくなってしまっていた。
◇
夕食が片付けられ、絢と小春が部屋に戻った後。
男部屋に天翔と二人だけになると、夜叉月は居ても立ってもいられず、すぐさま天翔の元へと詰め寄った。
「天翔、頼むから教えてくれ。絢が何を望んでいるのか」
「本気で言っとる?いや、でもお前千年こじらせてるから、麻痺しとるんかもしれんな」
「……早く言え」
「分かった!教えたるわ!簡単なことやで。要するに、お前が絢のことをどう思ってるかってことやんか!」
なんだそれは。それならずっと伝え続けてきただろう……
「絢は、大切な……」
「ちゃうわ!大切かどうかやない!『好きだ』とか、『愛してる』ってやつやろ!」
「愛っ……?!」
確かに伝えたことはなかったか?
―――いや、そんな言葉は生まれてこの方口にしたことなどない!
「それは他の何より重要なものなのか?」
「さぁな。俺らにとってはな、そんな言葉がなんやねんって話でもな、女にとっては違うんやって。特別なことなんやってさ。絢がそれを望んでるんやから、言ってやったらええやないか」
「……」
よく分からないな。
口にするだけなら、いくらでもできるのかもしれないが、それがどんなものかも分からずに上っ面の言葉だけを並べるのはあまりに不誠実であろう。絢に対しては、誠実でありたかった。
「……言えない。その言葉の意味が分からない。絢のことは大切だし、失いたくない。それだけでは、だめなのか?」
「だめやないと思うけど……だぁぁ!! そんな気にしとんなら、もう、絢と直接話してこい!」
短編絢side一話完結の物語
「あなたに初めて出会った日」
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