第四十一章 絢が欲しいもの 【前編】
宿に戻ってきた小春はすっかり上機嫌で、出かける前の取り乱した様子は微塵も感じられなかった。そしていつものように絢に腕に密着し、彼女の隣を完全に独占していた。
四人は夜叉月と天翔の男部屋に集まって寛いでいる。
天翔は足を投げ出し、ようやくひと息つくように窓の外の庭園を眺めていた。
一方の夜叉月は腕を組み、足元にずらりと並べられた色とりどりの小箱や髪袋の山を複雑な眼差しで見下ろした。
「なんだか、たくさん買ってきたのね?」
「うん!美味しそうなもの、たくさんあった!絢姉ちゃん、プリンもあるの!ぷるぷるして美味しそうなんだ!後で一緒に食べよう?」
「まぁ!それは楽しみね」
圧巻な様子で並べられているそれらは、天翔が高く積み上げ、器用に部屋へと運び入れたものだった。
小春がこれほど上機嫌な理由は、この山のような土産の数々のためか。隣でげっそりしている天翔を見るに、彼女に相当連れ回されたのだろう。
まぁ何にせよ、「よくやった」と天翔の肩でも叩いてやるべきか。
ふと小春がこちらを振り返る。
「夜叉月、あんたの分もプリンある」
予想外の言葉に面食らい、夜叉月がすぐには返事をできずにいると、小春の隣で絢がふんわりと微笑んだ。
「みんなで食後にいただきましょう。小春、ありがとう」
小春は嬉しそうに笑い、一層甘えるように絢へとすり寄った。
「夕飯は、こっちの部屋に運んでもらうようにしてあるから、そのままここで待っとったらええよ」
天翔の言葉の通り、しばらくすると、引き戸の外から中居の声が聞こえてきた。
「お食事のお支度でございます」
静かに引き戸が開き、中居たちが頭を低く下げた後、御膳を運んでくる。卓の上には、冬の箱根の味覚を散りばめた色とりどりの料理が、小鉢や小皿に上品に並べられていた。
湯気を立てる山菜や川魚の煮物から西洋の肉料理まで、和洋折衷の美しい御膳である。
小春と天翔は卓いっぱいに広がっていく料理の数々に、前のめりになって目を輝かせている。絢はと言うと、見慣れない豪華な御膳を前にやや緊張気味に背筋を伸ばしつつも、やはり瞳の奥は期待に満ちていた。
だが、夜叉月だけが、御膳ではなくそんな絢の横顔をただ見つめていた。
「夜叉月、ほんまいつもぶれずに絢ばっかりやな。小春、偉かったで。褒めたるわ」
天翔は、夜叉月へ諦めたような視線を投げながら、傍らではしゃぐ小春の頭をぽんぽんと撫でている。
実は、夕食が運ばれる直前、小春はそれまで抱きついていた絢の腕をぱっと離し、何も言わずに絢の「向かい側」に座ったのだ。
絢はいつも通りにこにこと小春を見つめていたが、夜叉月と天翔は揃って目を見張って驚いたものだ。それからなんとなく二人は顔を見合わせた後、それぞれ絢と小春の隣に腰を下ろしたのだった。
「べ、別に……。ただ、夜叉月が現れたからって、絢姉ちゃんの私に対する気持ちが変わるわけじゃないって、分かってるから」
「ふふっ。そうよ……当たり前じゃない」
絢は、小春の何もかもを理解しているような表情で微笑みかける。
小春は安心したように笑い返した。
その温かな光景を見ていると、夜叉月は胸の奥がひりひりと灼けるように痛んだ。
絢は、無意識のうちにその清らかさと気高さで、周囲の者たちの心を掬い上げていく。それは決して私にだけ向けられるものではない。
彼女の「特別」でありたいと願うのは、あまりに欲深い思い上がりなのだろう。もう身に余るほどの幸福を受け取っているというのに―――
「小春は……絢の、特別だ」
ふいに夜叉月の口から零れ落ちた呟き。その言葉に、呆気にとられたような三人の視線が一斉にこちらへと向けられた。
「小春、私に教えてくれないか……絢が望むものとは、一体何だ」
「……絢姉ちゃんが望むもの?」
「……私には、分からないんだ。きっと、お前なら分かる」
「や、夜叉月っ!」
絢は慌てた様子で、夜叉月の着物の袖を強めに引っ張った。
夜叉月は、そこではっと我に返り、「しまった」と思った。絢に考えてみるように言われていたのに、小春に答えを求めようなどと、どうかしていた!
「え?絢姉ちゃん、欲しいものがあるの?」
「い、いえ……ええと……そういうわけでは……」
「……?」
絢が視線を泳がせ、困ったような笑みを浮かべる。
「それでは、ごゆっくりお召し上がりください」
御膳と酒の準備が整うと、仲居たちは再び深々と頭を下げて退出していった。
「とっても美味しそうですね!冷めないうちにいただきましょう!」
「せやな!」
幸いにも皆の意識が目の前の豪華な料理に向き、夜叉月は内心で少し胸を撫で下ろした。
「折角や、みんなで呑も呑もー!」
用意された盃に、天翔が徳利を傾け、四人分の酒を注いでいく。
「「乾杯!」」
四人は同時に盃を干した。
天翔は再び徳利に手を伸ばしたが、先に夜叉月がそれを取った。空になった絢の盃に酒を注ごうと、徳利を持ち上げたところに―――
「そういや、小春と絢も雪見酒したん?」
「したよ!もちろん!ね、絢姉ちゃん」
「そ、そうね」
「徳利二本なんてあっという間になくなっちゃって、絢姉ちゃんはそのあと一升瓶も空けちゃったもん!流石なんだから!」
夜叉月は手を止め絢を見る。小春が誇らしげに語る隣で、絢はあからさまに視線を逸らしていた。
「そ、そんなに呑んだかしら?」
「そうだよ!私が何杯か呑んでる間に、もう空っぽだったもん!」
夜叉月は絢に注ごうとしていた徳利を静かに卓上へと戻す。
絢の言う「少し」とは、いかばかりか……恐ろしいな。
「また部屋に戻ったらさ、部屋風呂で雪見酒の続きしよう!」
「小春……勘弁してくれ。私の心臓が持たない」
「は?何言ってるの?私たち二人の話ですけど?まさか覗く気?……変態」
絢は少しだけ頬を染め、居た堪れない様子で俯いている。
私以外の前で、これ以上大胆な呑み方をしないでくれ。呑んだ後に誰に会うかも分からないのに……
それが本心だが、ここまで絢と夜叉月を受け入れようと努力を見せた小春との大切な時間に、水を差すような無粋な真似をするわけにはいかない。分かっている、分かってはいるが……!
夜叉月は大きな溜息を吐き出すと、片手で顔面を覆って項垂れた。




