第四十章 その千年を、溢れるまで 【後編】
「んっ……」
肌をさす冷たい外気が、瞬時にふわりと暖かいものに変わる。
そこは夕方の薄暗い部屋の中だった。夜叉月は空間を飛び越え、宿の自室へと戻ってきたのだ。
絢の唇を味わいながら、彼女の背を戸へと預ける。余裕を失った彼女が、夜叉月の着物の袖を強く握りしめた。
まだ部屋に灯りは灯されておらず、天翔が戻っていないと分かると、絢を戸に押し当て、内側から掛け鍵をかけた。
カチャン。
小さな音にはっとして目を開けた絢が、夜叉月の陰から僅かに部屋を見渡し、ここが先ほどの場所ではないと気づいたようだ。夜叉月は絢の顔の横に両腕をつき、それ以上確認させる隙もないほど囲い込んで閉じ込めた。
「あ、夜叉っ……」
絢が慌てて身を引こうとしたので、夜叉月はまた片腕をその膝裏に回し、絢を高く抱き上げるように持ち上げた。
「あっ……」
足元が浮いたことに驚いた絢が、夜叉月の首にしがみつこうと近付いた。すかさず絢の頭の後ろを押さえるようにして、夜叉月は再びその唇を奪った。絢は抵抗する余裕もなく、甘い吐息を漏らしながら必死に応えていく。
唇を離さないまま、部屋の隅に敷かれた布団の上へと絢を優しく押し倒し、唇を首筋へと移動させる。ようやく呼吸の許された絢は、一度大きく息を吸い込み、胸を荒く上下させて息を吐いた。その吐息に混じる甘い熱が、夜叉月の理性を溶かしていく。
「夜叉月……っ、少し、待っ……て」
「今、あなたを……離したく……ない」
「違っ……んっ」
再び唇を塞ぐ。
片腕を絢の腰に滑り込ませて逃げ場を断ち、もう一方の手で絢の白く細い指を絡め取るように布団へと縫い付けた。
絢はもはや抗うこともせず、首筋を優しく這う夜叉月を受け入れ、白い首筋を露わにするように自ら頭を傾けた。
「はぁ……っ、んっ……」
耳をかすめる甘い声。全身を包み込むような白檀の香り。
僅かに上体を起こし、熱を帯びた瞳で絢を見下ろす。
明かりのない薄暗い部屋に、夕暮れの名残である窓からの淡い光が差し込み、絢の華奢で美しい輪郭を妖艶に浮かび上がらせる。
乱れた黒髪と、無造作にはだけかけた襟元、紅潮した頬、口元に軽く触れている指先、蕩けて潤んだ瞳。すべてが狂おしく扇情的だった。頬から首筋、鎖骨、細い腕、乱れた着物から覗いた腿の内―――溢れる感情を熱に変え、口づけを降らせていく。絹のような肌を滑るたび、心は満たされるどころか、益々渇望が深まるばかりで―――。
しかもたちが悪いことに、この想いすべてを絢に受け止めて欲しいと願ってしまう。
「絢、このまま……」
「んっ……いいですよ」
絢の声が胸の奥を切なく疼かせ、脳内に叫び出したいほどの痺れを呼び起こす。
「私は、あなたを受け入れる心はもう整っています。ただ……」
「ただ?」
「本当は、その前に……あなたに望むことが、一つだけあります」
「それは……何?」
「……教えません」
「……え」
「教えません」
夜叉月は動きを止め、完全に固まってしまった。
いつだって絢の望みは何でも叶えてやるつもりでいる。ただ、肝心の望みを教えてもらえないとなると、彼女が何を求めているのか皆目見当もつかない。
普段から欲しいものをねだるような性格ではないし、物欲があるわけでもなさそうだ。だとしたら……何だ?
「ふふっ。分からないようですね」
「教えてはくれないのか?」
「はい。……どうしますか?このまま続けますか?それとも、今夜だけは……私の望みを考えてみてくれますか?」
面食らって言葉も出ない。
夜叉月が絢の望みを無視してこのまま押し切るなど、できるはずもなく……
こちらに判断を委ねているようで、実際にはすべての主導権を手にしている絢の余裕の笑みを、夜叉月は熱を持て余した瞳で見下ろすしかなかった。
少しずつ頭が冷えてくると、なんだか絢が酷く意地悪く思えてきて、じとりとした拗ねた目線を送る。
「あははっ! なんです、そのいじけたような表情は」
「……絢が、悪い」
絢の上から起き上がり、腕を組んでそっぽを向いた。
絢も笑いながら身を起こし、夜叉月の前に膝をついて愛おしそうに顔を覗き込んできた。絢の両手が夜叉月の頬を包み込む。
「考えてくれるんですね。嬉しいです。でも不安にならないで。私の心は……いつだって、あなたにありますから」
窓の外ではいつの間にか再び雪が降り始めていた。静寂に包まれた、甘い、甘い夕暮れ。
絢は夜叉月の頬や乱れた髪を撫でながら、彼が再び自分の方を見るのを待っているようだ。
絢にこうして甘やかされては、いつまでも機嫌を損ねていることなどできない。夜叉月は観念して、切なく絢を見上げた。
―――まただ。
夜叉月を安心させる、慈しみを湛えた絢の瞳。その目で見つめられると、どうしようもなく心が解けてしまう。
絢はゆっくりと顔を近づけると、最後にもう一度だけ、甘く優しい口づけを夜叉月の唇に落とした。




