第四十章 その千年を、溢れるまで 【中編】
冬の陽が大きく傾きかけた箱根神社の境内は、空高く聳える杉の木々が長い影を落とし始めていた。
湖が近いせいか、昼間よりも一層空気が冷たくなったように感じる。
絢が腕の中で身を捩り、きょろきょろと辺りを見渡す。生い茂る木々に阻まれ、ここから湖面はまだ見えないが、近くに朱塗りの美しい本殿があった。
ここが目当ての場所だと分かると、絢は夜叉月を見上げ嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとう、夜叉月」
夜叉月は絢を腕の中から解放すると、二人はゆっくりと歩き始めた。
参道に並ぶ石灯籠にぽつぽつと明かりが灯り始め、朱色の社殿は夕暮れ時の淡い光を受けて、どこか神聖で厳かな佇まいをみせていた。
冬の風が杉の枝葉を揺らす音と、参拝者が踏みしめる砂利の音だけが響いている。
「空気がいいですね。やっぱり神社は落ち着きます」
「あぁ。冷たいが、とても澄んでいる。……それにしても、山の天気は変わりやすいな。昼間の雪が嘘のように雲が流れていってしまった」
「まさかこんな夕景色が見られるなんて!」
この静けさのせいであろうか、空を見上げる絢の横顔を見つめていると、夜叉月はここ最近胸の内で考え続けていたことが再び湧き上がってくる。
夜叉月は絢に聞いておきたいことがあったのだ。
「絢はあの日……何を見たの?」
「あの日とは、夜叉月の過去に触れた日のことですか?」
「……そうだ」
「そうですね。あなたが刀神としてこの世に生まれ、私を見つけるまでの……長い、長い物語を見ました」
やはり、輪廻の鎖石は絢にすべてを見せたのだ。胸の奥で、暗く重たい物が疼いたような気がした。
絢が夜叉月の手を取り、少し歩調を早める。
「夜叉月、まだ肝心な景色を見られていません!きっとこっちです!行きましょう」
夜叉月の中には再び不安が渦巻いて、正直景色どころではなかった。
だが手から伝わる絢の体温がそれを少しだけ和らげてくれる。愉しげな絢を困らせてはいけないと、夜叉月は何とか笑みを貼り付けた。
愚かな私の選択の数々を見て、絢はどう受け止めただろうか。優しい絢はそれでも私を受け入れてくれた。だがほんの少しの失望も無かったかと言えば、それは別の話だ。
そんなこと、わざわざ自分の口から確認する必要もないのに。だが本心を聞かねば、一緒に居ても心が休まらないほど、どうしても気になってしまうのだ。
絢に手を引かれ、神社から湖へと続く石段を下りていく。
下には波打ち際が広がり、鏡面のような壮大な芦ノ湖が、薄紫の夕空を静かに映し出していた。冬の湖面は波もなく穏やかで、夜叉月の心を少しだけ鎮めてくれた。
西の空は茜色から群青色へと移り変わる途中にあり、その中で雪を纏った雄大な富士が淡い紅桃色に染められて佇んでいる。
「美しいですね。富士も、圧巻です!」
絢がそう呟いたが、夜叉月にとってはこの世のどんな景色よりも、目の前にいる絢の存在こそが美しい。この瞬間、彼女の姿よりも目に焼き付けておきたいものなど、ありはしない。
夜叉月は、絢の言う「美しい背景」に立つ彼女の後ろ姿を、じっと見つめていた。その髪で揺れる硝子の蓮の簪は、夜叉月に向けられる慈愛の象徴のようで、手を伸ばしたくてたまらなくなる。
綺麗だ。あなたが見たいと言ったこの景色も。そこに佇むあなたの姿も。あなたといられる今この瞬間の、何もかもが―――
「来たかったんですよ?夜叉月と……二人で」
「……」
「夜叉月?」
絢が振り返るより早く、夜叉月は後ろから絢を抱き寄せ、その肩に顔を埋めた。
本心を聞くのは、思いのほか恐ろしいものだ。だが、こればかりは聞かずにはいられそうもない。
「絢は……私のことが、怖くはないのか?」
「怖い」と言われたら耐えられないと分かっていながら、試すような問い方をする。
「いいえ」
「失望したりは?」
「なぜ?」
過去なんて己への失望の連続で、自分でも一体どれのことをさして聞いたのかさえ分からない。
夕空の光を受ける絢は、今どんな表情をしているだろうか。
それを確かめたいのに、情けなくも、彼女の答えを聞くのが怖くて顔を上げられないでいた。
「私は……真尋の母親を救わなかった。救おうと思えば、救えたのに」
「だけど夜叉月は、真尋に手を差し伸べたでしょう」
絢が宥めるように、夜叉月の腕をそっと撫でる。
「私は昔から……心のない、刀神で……」
「心がない?あなたに出会ってからというもの、私は夜叉月の熱いほどの想いにばかり触れているというのに?ふふっ」
絢が可笑しそうに笑う。その声が、不安を打ち消していくようだった。
「それに……真尋を斬ったのは、私なんだ」
夜叉月の腕に、思わず力がこもる。己の口からそれを改めて認めることが、これほどまでに心を抉るとは……。
「……護法善神の使命とは……とても、辛いものでしたね。……でもあなたは、決して真尋を見捨てなかったでしょう?」
「見捨てなかったのとは、違う。ただ……離れられなかった……だけだ」
夜叉月は魂に繋がれた見えざる鎖に触れるように、片方の手を自らの胸に当てた。口をついて真尋を否定するような言葉を吐いてしまうと、自分でも信じられないくらいに胸が締め付けられて苦しい。これは輪廻の鎖石のせいなのだろうか。
「夜叉月」
澄んだ声に呼ばれて顔を上げると、絢がこちらを振り向き、夜叉月に身を預けて寄りかかる。そして、夜叉月が胸に当てていた手の上に、絢が自身の指を絡めるように掌を重ね合わせた。
「あなたは……気づいていないんですね。これがどんなものか」
「これは……真尋の呪いで……」
「―――違います。夜叉月、あなたって本当に自分の気持ちに疎いのね。本当に、不器用な人です」
絢が夜叉月の手の甲を親指の腹で宥めるようにゆっくりとさする。
夜叉月も絢の背に手を添えた。
「こんなに温かいものに気がつかないなんて……。あなたの真尋に対する行動が、すべて無意識だなんて……私には信じられませんね」
絢の言っていることの意味が、どうしても理解できなかった。
「何のことだ」
「この鎖は、あなたが取り払ってしまおうと思えば、簡単に外れてしまうものですよ」
「……?そんなはずは……」
普通の人間には見えないはずの、童子切に巻かれた鎖の上を、絢の指先が確かにゆっくりなぞっていく。最初から、彼女にはすべて見えていたのだろう。
「あなた自身が、この鎖を繋ぎ止めているんです」
絢は何を言っている?どういうことだ?鎖を……繋ぎ止めている?
いや、違う。記憶の中でもあったはずだ。あれは怨霊になった真尋から確かに伸ばされたものだ。あのときの痛みも苦しみも、すべて鮮明に覚えている。間違いはない。
「私には確かに見えました。あなたと真尋が繋がった、あの日の光景が」
「……何が起きたかは、自分がよく分かっている」
「いいえ、それは正しくありません。あなたは、あなた自身の想いと真尋の想いに気づかず、見逃している。それは真尋も同じですけれど」
「……絢は一体……何を見たと」
絢の眼差しが急に真剣な色を帯びる。
彼女は何を知っているんだ。私の知らない、何を―――
「真尋の思いは、あの日確かに鎖となってあなたに伸びました。でもそれは決して恨みだけではなかった。それよりも深く、あなたと離れたくないと、彼の魂は叫んでいました。そして……その想いの鎖をつかんだのは、あなた自身でした」
夜叉月は、まるで雷に打たれたような衝撃を受けた。
この千年、この鎖石にどれだけ苦しめられてきたか。それが、己の選択だったと―――?
「……っ!私が……掴んだ……っ?」
「そうです。表面では苦痛に抗いながらも、あなたの魂の奥底では、その鎖を決して離すまいと、自らそれを引き寄せていました」
「そんな……はずは……」
「こんなに深い愛を持ちながら、まったく自覚がないんですね」
「……呪いでは、ない?じゃあ、あの痛みは」
「半分は真尋の悲しみで、半分は……あなた自身の罪悪感が感じさせているのでは?でもどんなに辛くても、あなたは決して手放そうとはしませんでしたね」
「私が……?」
「こんなに強い絆で結ばれているというのに、千年もすれ違って……。夜叉月も、真尋も……本当に放ってはおけませんね。そんなあなたたちが……私は愛しくてたまらないです」
絢が夜叉月の頬を優しく撫で、「偉かったですね」とまるで子どもをあやすような言葉を口にする。
理解が追い付かない。
ずっと真尋からの怨みと苦しみを背負い続けていると思い込んでいたのに……
「この鎖は、恐ろしいものではないですよ?真尋のまっすぐな愛そのものです」
真尋を斬ったのは自分なのに……真尋が自分を許すはずがないと、ずっと思っていたのに。
「ふふっ。親子のようなあなたたちは、愛の形まで重たくて……そっくりですね。この鎖に流れる温かな熱が、分かりませんか?私には鎖とは思えぬ、柔らかな光に見えますが……」
「分かるわけ……ないだろう。絢……あなたには一体、どう見えているんだ。私にも見えていればよかったのに……。あなたは、いつも……いとも簡単に私の千年を救い上げて……」
「約束しましたからね。まだまだこんなものではありませんよ。覚悟して受け止めてくださいね。夜叉月、あなたが感じた千年を……たとえ溢れようとも、私のすべてをかけて満たし続けてみせます」
「……絢っ」
愛しい名を呼んだ声はもはや掠れ、風に掻き消えるほどの囁きにしかならなかった。
焦燥感にかられ、堪らずに絢を引き寄せ、きつく抱きしめる。目を見開く絢の顔へと自らの影を落とし、溢れる想いのままに、彼女の唇へと口づけた―――




