第四十章 その千年を、溢れるまで 【前編】
夜叉月は宿で傘を一つ借りると、絢を抱き寄せ並んで入った。絢を傘にすっぽり収めれば、夜叉月の肩が雪に晒される。
気づいた絢が自ら少し身を寄せてきた。愛らしい彼女の行動に思わず目元が緩んだ。
「小春はよかったのか?」
「えぇ。天翔もいますし。小春だって、本当は分かっているんだと思います。それに……」
絢がこちらを見上げて微笑んだ。
「私のことを抜きにすれば、小春は存外、あなたのことも気に入っていると思いますよ! 私が言うんだから、間違いはありません」
「それは……心強いな」
絢は、いつだって温かい。今日、こうして自分を選んでくれたことも、心から嬉しい。
ならば私は、この時間を絢にとってこの上なく幸せなものにするまでだ。
「では、絢の望む所へ」
「そうですね……少し小腹も空きましたし、チョコレートが食べたいです!」
「いいだろう。じゃあ絢、しっかり捕まっていて」
「えっ……きゃあっ?!」
夜叉月は中腰になると、傘を持つ手とは反対の腕を絢の膝裏へと回す。ぐっと力を込めて、そのまま軽々と彼女を抱え上げた。
夜叉月の腕に座らされるように持ち上げられ、不意を突かれた絢が小さく悲鳴を上げる。バランスを崩しかけて咄嗟に夜叉月の首を抱え込んだ。
絢が体勢を立て直したときには、周囲の景色は先程までの雪深い静けさとは打って変わって、賑やかになっていた。
ここは宮ノ下の通り。石畳の緩やかな坂道に沿って、日本らしい造りの木造の店が軒を連ねていた。
石畳の通りを人々がカラコロと足音を響かせ行き交うど真ん中で、夜叉月が絢を腕に抱えているものだから、すれ違う人々は皆ちらちらと視線を向け、目を丸くして驚いている。
「はははっ」
「……」
「着きました。ははっ」
「……え?あっ!や、夜叉月っ!!下ろして」
言葉を失っていた絢が我に返り、急にじたばたと暴れ出す。顔を赤らめて足をばたつかせているが、落ちるのが怖いのか、首に回した腕の力だけは一向に緩めようとしない。
あまりに愛らしい抵抗に、このまま抱えて歩こうかとも思ったが、絢に機嫌を損なわれては困るので、その場にそっと下ろしてやった。
「こんな人前で……なんてことを……」
絢は顔を覆って俯いている。
そんな姿すら可愛くて、夜叉月は笑いを抑えきれなかった。
とうとう絢がキッと睨みつけるような抗議の目を向けてきたため、夜叉月は慌てて視線を逸らし、笑いを噛み殺した。
「外国の観光客がとても多いですね」
「この辺りは最近になって本格的な西洋式のホテルが建てられて、外国の賓客や政財界人が多く出入りするようになったそうだ。彼らが好むハイカラな商店も増えているらしい。あ、ちょうどここからも見えるな。あのホテルだ」
夜叉月が指差した奥には西洋風ホテルが佇み、印象的な本館のバルコニーが見えていた。
ここは和と洋。そして伝統と文明開化が混ざりあった場所だ。
「へぇ……詳しいんですね」
「政財界の客が多いから。よく耳にするってだけだ。絢と来られるとは思わなかった。こうして自分の目で見るのも、悪くない」
山の天気は変わりやすい。標高が少し下がったせいか、いつの間にか雪はすっかり上がっている。夜叉月は傘を畳むと、絢へ腕を差し出した。
「地面は滑りやすいから掴まって。チョコレートの店を探そう」
「はい」
絢が嬉しそうに微笑んで夜叉月の腕を取る。踏み荒らされた雪はでこぼことしていて、絢は歩きにくそうだ。術を施して浮かせてやることもできたが、夜叉月の腕にぎゅっとしがみつくようにして歩くのが嬉しくて、敢えてそのまま支えていることにした。
「あっ!見て、夜叉月!ありました!」
絢の指し示した先に、「チョコレイト」の看板が掲げられた店が見えた。
店の格子戸を押し開けると、中は嗅ぎ慣れない濃厚で甘やかな香りに満ちていた。
シルクハットの外国人紳士や、美しいドレスを纏った貴婦人がチョコレートを買い求めている。
絢はショーケースの前に駆け寄り、早速目を輝かせて釘付けになっていた。その姿を見つめながら、夜叉月は自然と頬を緩ませる。
「どれがほしい?いくつでも」
「いいんですか?!」
「あぁ、どうぞ」
「じゃあ、えぇと……」
絢は散々迷った挙句、金紙で丁寧に包まれた板チョコレートを二枚、ショーケースの中で宝石のように飾られた洋酒入りのチョコレート三粒、そして焼き菓子を一つ選んだ。
「これだけでいいのか?」
「十分です!大事に少しずつ食べます」
「絢、この洋酒入りのチョコレートは私がいるときに食べて」
「?……はい」
絢は、赤いリボンがキュッと結ばれた洋風の小箱を大事に抱え、店を出た。
「チョコレート、ありがとうございました」
「いいえ。喜んでもらえて良かった。……次はどこへ行こうか?」
絢が再び夜叉月の腕を取って、通りの先を指差す。
「寄木細工のお店が見たいです!」
すぐ向こうにそれらしき看板が見えている。絢が声を弾ませ、夜叉月の腕を引いた。
店内に入ると、様々な樹木の織りなす温かみのある香りが香ってきた。
箱根の自然の木々を組み合わせた美しい幾何学模様の寄木細工が、棚一面に並んでいる。
外国人の女性客二人が、一つの品を手に取り、上から下から眺めながら首を傾げていた。そこへ店主が歩み寄り、女性の持っていたものと同じ木箱を一つ手に取った。
「面白い物をお見せしましょう」
店主は、客にその箱の扉が開かないことを改めて確認させると、ぽこぽこといくつかの木片を順番に滑らせていく。やがて、「かちり」と小さな音がして、開かないはずの箱の扉がすっと開いた。
その瞬間、絢が目と口を大きく見開いて、狐につままれたような顔をした。夜叉月は思わずふっと吹き出してしまう。
店内では同じように驚く外国人の観光客から感嘆の声が上がっていた。
「これは『秘密箱』です。どうぞ、お手に取ってご覧ください」
早速絢は、店主が見せたのと同じ箱を手に取り、からくりを解こうと動かしてみるが、びくともしない。絢は真剣な顔つきで何度も試行錯誤を繰り返している。
「ははっ」
「あ、笑いましたね!難しいんですよ、これ!」
夜叉月が声を出して笑うと、「お前もやってみろ」と言わんばかりの表情で、絢は持っていたからくり箱を差し出してきた。
それを受け取って、くるくるとひと通り眺めた後、店主がやったように木片をひょいひょい動かしていく。
―――かちり。
「……っ!!」
あっさり開いた秘密箱を誇らしげに差し出すと、彼女はさらに目を丸くし、瞳を震わせて感動に浸っている。
……大袈裟だな。
夜叉月はまた笑いが込み上げてくるのを、必死に押さえ込んだ。
「す、すごい!夜叉月!」
「店主がやったのを真似ただけ」
「一度で覚えたんですか?」
絢は目を細め、その箱を食い入るように観察し続けている。
「組まれた木目の模様も、とても美しいですね」
ふと、店内に透明感のある美しい音色が響き渡った。金属の弾かれる小さく高い音で紡がれる、優しい旋律。外国人の貴婦人が、化粧箱を手にしてうっとりと見つめているが、どうやらその箱から流れている音色らしい。
「ぜんまい式のオルゴールです」
店主の言葉を聞き、絢はそちらの棚へと歩み寄っていく。
オルゴールの寄木細工は秘密箱と異なり、仕掛けを解かなくてもすぐに蓋が開くようだった。絢が蓋を開けると、どこか懐かしい響きが空間を満たした。
「この曲、懐かしい……子守唄ですね」
「そうなのか?」
「はい。幼い頃に聞いた覚えが……。私、今回の旅の思い出に、これを買います」
絢はその子守唄を奏でるオルゴールを手に取り、自分でぜんまいを巻いた。目を閉じて、そこから流れる優しい音に聞き入っている。
夜叉月は店内をぐるっと見渡し、結局最初に絢が挑んでいたからくり箱を選んだ。
「私はこれを」
「どんな秘密をしまうつもりですか?私は絶対に開けませんからね」
「じゃあ……とっておきの、秘密の宝物を」
夜叉月が顔を絢の耳元に寄せて、内緒話のように小声で囁くと、二人は顔を見合わせて微笑みあった。
外は徐々に日が傾いてきた。
手に入れた思い出の品を手提げにしまい、絢と最後の目的地へ向かう。
「夕飯の時間までには戻らないとだけれど、まだ寄れそうだな。行きたい所はあるか?」
「箱根神社へ行って、夕暮れの芦ノ湖と富士山が見たいです!」
「よし、行こう!」
夜叉月は絢を抱き寄せると、そのまま一瞬で空間を飛び越えた。




