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第三十九章 箱根温泉雪見酒 【後編】

「で、鎖石の暴走以来真尋は?出てこんの?」

「あぁ。たまに意識が戻ってぼんやり俺の名前を呼ぶことはあるが……後はだいたい……寝ている」

「へぇ……真尋って、寝るんやな」


 最近このように不自然なほど真尋の表立った反応の無い日が続いている。絢に尋ねれば、真尋は「寝ている」のだと教えてくれた。

 真尋は、輪廻の鎖石が暴走した日の記憶のほとんどを失っていた。あれこれと無理に思い出させるのも酷だと思ったし、今の彼が穏やかでいるのなら、それで十分だと夜叉月は思っていた。



 しばらくして、天翔が「お先〜」と言って先に湯船から上がっていく。散々長湯したが、夜叉月はもう少しだけ、この静けさと雪の降り落ちる微かな音に浸ることにした。


 そうして夜叉月も湯から上がった頃には、身も心もすっかりほぐれ、ふわふわとした心地で部屋に向かった。


 濡れた髪の水気を手ぬぐいで絞り取りながら、事前に聞いていた部屋の引き戸を開けた。上質な畳の香りが鼻を抜ける。


 すっかり酔いが回ってしまった。これは、出かける前に少し水でも飲んだ方が良さそうだ。


「ふふっ。随分と長いお湯でしたね」


 不意に耳に届いたその声に、夜叉月は勢いよく顔を上げた。てっきり天翔がいるのだろうと思っていた卓の前には、絢が座っていたのだ!

 奥は一枚ガラスの大窓で、外の庭園の雪景色が広がり、まるで絢がその純白の雪の真ん中に座っているようだ。酔いも相まって、その光景はやたらと幻想的で、夢幻のように美しく映る。


「呑みすぎたの?それとも湯に浸かりすぎたのかしら?目元まで赤いですよ?珍しいですね?」

「あ、絢?!私は……部屋を……」

「間違えてはいませんよ?」


 絢はくすくすと笑いながら立ち上がり、湯呑に水を注いでまた卓についた。


「お水をどうぞ」


 そう促されても、思考が追いつかず、すぐには動けなかった。

 絢も湯上がりなのだろう。下ろされた髪が片側に束ねられ、上気した頬が桃色に染まっている。


 酒に酔った状態の自分には、刺激が強すぎる!

 今すぐ彼女に触れてしまいたい衝動に駆られ、咄嗟に風呂での天翔の言葉が頭を過った。己の不甲斐なさに項垂れ、片手で自らの目元をがしっと覆い隠す。


 良からぬことを一瞬でも考えた自分の頭を殴ってやりたい!


「夜叉月?」


 澄んだ声に呼ばれ、大きく吸い込んだ息を吐き出して切り替える。覚悟を決めて、絢の向かい側にどっしりと腰を下ろした。


「あぁ、すまない。絢がどうしてここに……」


 言葉の途中で絢が立ち上がり、あろうことか夜叉月の隣へ移動して座りだす。膝を抱えるようにしてこちらを覗き込み、桃色の頬でへらっと笑いかけてきた。

 今の自分を信用できぬ夜叉月は、反射的に後退りしそうになってしまった。


「天翔が……こっちの部屋で待つと良いって。小春たちは、宿の喫茶で羊羹を食べてくると言っていました」


 絢が笑いながら身体をこちらに傾けるので、また少し距離が近付く。夜叉月はもう一度顔を覆うと、長い溜息をついた。


「ねぇ絢……。酔ってる?」

「いえ?全然?少ししか飲んでいませんし」


 そういう絢は至っていつも通りだという顔をしている。変化といえば桃色の頬くらいで、口調が変わったわけでもない。

 だが夜叉月には感じ取れた。絢のこの距離感は……確実に酔っている。


 もしかしたら、酔った際にこうして近づいてくるのは相手が自分だからかもしれない。だから皆、絢がザルだ何だと言うのだろう。

 何がザルだ。この絢を見ろ!

 こちらの理性をぶち壊しにくる、この眼差しを!

 ……こう考えてしまうのは、私自身も酔ってる故の自惚れだろうか。


 夜叉月は絢の入れてくれた水を一気に半分だけ飲み干すと、その湯呑を絢の前に置いた。


「残りは絢が飲んで」

「ふふっ。また過保護ですか?私は平気ですよ」

「過保護?」


 夜叉月は再び湯呑を手に取り、残りの水を一気に口に含む。それを置いた手で、すぐ隣で無防備に顔を寄せていた絢の顎を、優しく指先で捉え―――そのまま自分の唇へと重ね合わせた。


 突然の不意打ちに、絢が目を見張る。

 僅かに開いたその柔らかい唇に、夜叉月はゆっくりと水を流し込んでいった。絢が瞼を閉じて小さく喉を鳴らし、それを飲む。静かな部屋に微かに響く甘い音。

 それに理性を奪われる前に、夜叉月は唇を離した。離れる瞬間、二人の吐息が零れ、混じり合う。


 絢の濡れた唇の端を、親指の腹でそっと拭ってやると、とろんとした瞳が夜叉月を見上げた。

 夜叉月は密かに眉根を寄せて、絢の目を覆い隠した。


「えっ?夜叉月?」

「私は過保護だから、それ以上近づいたら、また水を飲ませます」


 絢が夜叉月の腕を掴み上げ、避けた手の下から再び夜叉月を見つめて悪戯に笑う。


「えと……お水、もっと飲みたいです」

「……っ!」


 愛しい悪魔が、目の前に降臨した。

 

 再び、夜叉月の内なる葛藤が始まると、ふと戸の外から聞き慣れた声が聞こえてきた。



「―――いやだ!絢姉ちゃんも一緒がいい!」


 絢もそれに気づいたようで、二人で立ち上がって様子を見に行く。引き戸を開ければ、廊下の向こうでこちらに気づいた天翔が、両手を合わせ、「すまん!」と顔全体で謝罪の意を伝えている。

 小春もこちらへ振り返り向いた。


「あ、絢姉ちゃん!山道下りたとこにハイカラな通りあったでしょ?そこに絢姉ちゃんと一緒に行きたいのに、天翔が邪魔するの!絢姉ちゃんと夜叉月をしばらく二人にしてやれって……」


 どうやら天翔への「頼み事」は失敗に終わったらしい。まぁ、四人で回るのも悪くはない。もともとはその予定であったし、絢との話はまた別の機会にしたらいいだけのこと。

 そう諦めかけた時、絢が真剣な瞳でこちらを振り返った。


「ちょっと待ってて夜叉月」


 絢が小春の目の前に立ち、小春の手を取った。


「小春。少しだけ、いいかな?小春にちゃんと伝えなきゃいけないことがあるの」

「な、何、絢姉ちゃん……?」

「私ね、小春のことが大好き。とっても。その気持ちは今も昔もこれからも……何一つ変わらない。小春が私のことを大事にしてくれているのも、よく分かってる。ただ……」

「……」

「他にも大切な人ができてしまったの。私はその人のことも……大事にしたい」

「絢……姉ちゃん……」


 夜叉月の心臓が、跳ねた。

 小春の切れ長の瞳が大きく見開かれ、動揺に揺れる視線が絢と夜叉月を何度も往復する。


「小春には、一番に伝えたかったの。大事なあなたに、知っていてほしかったの」

「……っ」

「勝手でごめんね。だけど不安に思わないで。私はいつだって小春のことを、家族と同じように大切に思っているの。大好きな小春が……もし応援してくれたら……私はすごく嬉しい」

「……わ、私だって、絢姉ちゃんが大好きだもん!幸せになってほしいと思ってる!」

「うん」


 小春の瞳が潤んで、今にも零れそうな涙を必死に耐えているようだ。


「や、夜叉月のことだって嫌な奴じゃないってわかってる……っ!」

「うん」

「絢姉ちゃんのこと、大事に思ってくれてるの……分かってる!」

「うん」


 絢が優しく目を細め、動揺に震える小春の頭を、愛おしそうにそっと撫でた。


「でも……でも、まだ気持ちが追いつかなくて」

「そうだね」

「きっとすぐには……無理だけど……」

「うん」

「だけど……大好きだから……! 絢姉ちゃんの、応援……っ、するぅぅ。わあぁぁぁぁん」


 我慢の限界を迎えたのか、小春はその場で泣き出してしまった。子どものように空を仰いで、溢れ出る涙も拭わずに。

 絢が穏やかな笑みを浮かべたままで、小春の頬に手を差し伸ばそうとするより先に、天翔が袖で小春の涙を拭った。


「何泣いとんねん!絢がお前のこと大事やって話やろが!大事な小春に、特大の秘密打ち明けてくれたんやで!喜べ!ほら、天翔兄ちゃんがお前の好物でもご馳走したる!街行こうや」


 わんわんと泣く小春の肩を抱き寄せ、天翔が小春を連れ出していく。天翔は振り返らずに、片手を頭上でひらひらと振った。


「ほな、俺らは行くから、あとは二人でごゆっくりー」


 遠ざかっていく小春と天翔の背中を見送る絢の瞳には、どこか優しい切なさが滲んでいる。


「絢?」

「……私たちも行きましょうか、夜叉月」


 こちらを見上げた絢の表情は晴れやかで、その慈しみを湛えた美しい瞳は、今度こそ夜叉月だけを見つめていた。



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