第三十九章 箱根温泉雪見酒 【中編】
到着したのは、雪深い森の奥に佇む宿。その門をくぐると、広大な日本庭園を覆う見事な雪景色が広がっている。
「絢姉ちゃん、すごく良いお宿!!庭園が真っ白で綺麗!」
「本当ね。すごく素敵。この辺りは標高も高いから、しっかり雪が降るのね」
「萬ちゃん太っ腹やなぁ!夜叉月、相当気に入られてんねんな!俺らまで招待してもろて、有難いわぁー」
小春は絢の腕にしがみつき、隣を離れようとしない。先ほどまで夜叉月の特等席だったその場所は、今はすっかり小春に占拠されてしまった。
「なんや、ほんまに雪が本格的になってきたな」
天翔が空を見上げて呟いた。
確かに道中、標高が上げるにつれて、小さな雪が舞い始めていた。
天翔に言われて周囲を見渡せば、ちらちらと舞っていた雪がいつの間にか大粒に変わって舞い踊っている。
「ちょうどいいわ!露天風呂でも浸かって、雪見酒や!なぁ、夜叉月!」
「それはいいな」
天翔もたまには気のきくことを言う。
「絢姉ちゃん!私たちもやろう!雪見酒!」
「ええ、楽しみね」
「待て」
絢が微笑んで頷いた瞬間、間髪いれずに夜叉月が小春を制止した。
「何?」
「絢に酒を飲ませる気か?」
「だから何?さてはあんた、絢姉ちゃんがお酒ものすごく強いの知らないんでしょ?」
小春が「夜叉月の知らない絢姉ちゃんの秘密」を手にし、得意気に細めた目線をこちらに向けた。絢を見れば、彼女は少し表情を引きつらせ、視線をそらしている。
……あぁ、知らないさ。
いくら酒が強いと聞いても、まだ完全に信じられたわけではない。あの柳橋での夜のことを思い返せば……心配にもなるだろう!とにかくこの目で確認するまでは、私の前だけにしてほしい。
だが結局それを口には出せず、夜叉月は渋々折れることにした。
宿に一歩足を踏み入れると、館内は心地よく暖房が効いていて、外の寒さが嘘のようだった。高い天井からは和紙を通した柔らかな光がこぼれ、巨大な窓の外に広がる雪化粧の庭園は、まるで一枚の絵画のように縁取られている。
玄関では中居たちが静かな物腰で四人を出迎えた。天翔がてきぱきと手続きを済ませていく。
「なぁなぁ、離れの露天風呂空いとったから予約しといたで。すぐ使えるらしいから行ってみよ!小春と絢が先使う?」
「お部屋にも露天がついているようなので、私たちはまずそちらに入ろうかと」
「じゃあ夜叉月、一緒に離れ行こうや!」
「あぁ」
「買うてきた酒温めてもらってくるわ!熱燗や!」
天翔は徳利と猪口が二つずつ入った木桶を両手に抱えて、にこにことしながら戻ってきた。木桶の片方を小春たちに渡して一旦別れると、夜叉月と天翔は雪の積もる離れの露天風呂へと向かった。口笛を吹きながら歩く天翔の背中はやけに楽しそうだ。
離れの扉を開けると、そこは一面に白銀の世界だった。囲む木々も重たそうに雪を支えている。肌を刺すような冷気の中、巨大な自然石を組んで作られた岩露天風呂から、白く濃密な湯けむりがもうもうと立ち上がっては夜空へと消えていく。
「さむぅぅぅ!!!」
天翔がしっかり木桶を抱えながら慌てて雪の上を駆けていく。風呂の傍で雪に埋もれかけていた桶を引っ張り出し、ざぶざぶ頭から湯をかけて風呂の中に飛び込んだ。
「くぅーーーっ!!夜叉月もはよ来いって。はぁー、極楽やわー」
平らに削られた石が敷き詰められた地面をゆっくり踏みしめると、雪に足跡が残っていく。足の裏から頭のてっぺんまで突き抜けるような冷気が駆け巡った。
これは確かに天翔が慌てる気持ちも分かる。
ばしゃっ!
夜叉月も湯船に腰を下ろして、ゆっくりと息を吐き出し目を閉じる。最初は冷えた指先に小さく痛みが走り、それから全身に心地よい熱がじんわりと浸透していった。
これだけの冷気に当てられているが、十分に熱めの湯だ。
「どうや、夜叉月も一杯やるやろ!これ途中の宿場町で見つけたんや!上等な地酒らしいで!」
天翔は木桶を湯面に浮かべ、その中にあった猪口二つに早速熱燗をトクトクと注いでいる。
「ほれ!乾杯や!」
手渡された猪口を受け取ると、天翔がカツンともう一つを軽く合わせた。二人同時に熱い酒を喉へと流し込む。
「かぁーーー!最高や!!!」
「同感だな」
これは、なかなか染み渡る。雪空の極寒の冷気と、熱い湯気が混ざりあうのを肌で感じながら傾ける一杯は、風情があっていい。地酒の芳醇な香りに満たされ、夜叉月の口元も自然と緩む。
「は?!同感?!俺と同じ気持ちやってこと?そんな奇跡あるん?!」
「……」
「あっははは!冗談やないか!そんな目ぇ向けんなや!」
手にしていた空の猪口に、再び酒が満たされていく。
「夜叉月ほんま丸くなったよなー。出会った頃なんて目があっただけで刀向けよって。周りみんな敵みたいな顔して……」
「実際そうだったろう。俺は仏界のお尋ね者だからな」
「ははっ、せやな!でも俺はお前を敵やと思ったことは一度もないで」
「お前は昔から、変わっていた」
「言い方!」
「ふっ……今日は楽しそうだな」
「当たり前や!夜叉月と肩並べて風呂入って、雪眺めて、酒飲んで!最高やろ!」
思い返せばこの千年、天翔とは何かと行動を共にしてきた。……まぁ、追い払っても勝手についてきた、というのが正しいが。
それでも、こうして他愛もない話を語り合いながら酒を酌み交わす時間など、一度たりともなかった気がする。昔の自分は、天翔の存在など無いもののように、目もくれずに前だけを歩いていた。
天翔は気づけばいなくなり、忘れた頃にまた現れる。いつもお前は、どんな顔をして私の傍にいたのだろう。今と同じ、底抜けに明るい顔だったのだろうか……?
今日は、なぜかやけに酒がすすんだ。
「最近の夜叉月、ほんまに幸せそうやんなー。なんやこっちまで嬉しいわー」
天翔がにやにやと、うざったい笑みを近づけてくる。
よく見れば、さっきから天翔は徳利を片手に離さず、自分の猪口が空くそばから注ぎ足している。温泉の熱気も相まって、彼はすでにすっかり出来上がっていた。
夜叉月は呆れた顔をしながらも、嫌な気はしなかった。
「……そうだな」
「絢といい感じやもんなぁ。よかったやん、ほんまに。絢も、お前の『狂気の愛』を真っ向から受け止めてる感じするもんな」
「狂気とはなんだ」
「夜叉月千年の狂愛やろ!こんだけ報われんかったのに、千年待ち続けるって狂っとるやないか!あっははは!なぁ、ほんまにちょっともよそ見とかせんかったの?」
「するか!……くだらん」
「だっははは!せやなぁ!お前、そういう奴よなぁ!」
豪快に笑う天翔が、がばっと肩を組んできた。夜叉月は目も合わせずに酒を運ぶ。だがこの白銀の景色と酒のせいだろうか、だんだんと開き直って、いっそ清々しい気持ちになってきた。
「そうだな、狂ってるさ。二度と這い上がれぬほどの絶望の底から、一気に天高くまで掬い上げられて……もう一度、再びそこから落とされる恐怖を想像するだけで、気が狂いそうになる」
「そんな心配、いらんやろ?」
「そうだ、いらない。……絢を、信じてる」
そう言いながら振り向くと、天翔の笑いが急に止む。
特に気に留めず、夜叉月が木桶にあったもう一本の徳利を持ち上げると、すでに空っぽだった。
「あー、待ってろ待ってろ。一升瓶そのまま持ってきてん。熱くはないけど、ええやろ」
頭に載せていた手拭いを肩に引っかけ、ざぶんと湯気から立ち上がった天翔が、目を細めて振り返る。
「夜叉月、お前、今自分がどんな顔しとるか分かっとる?」
「……?」
「はははっ!ええ日や、ええ日や!」
夜叉月は自分の顔を水面に映そうとしたが、立ち込める湯気のせいで上手く見えなかった。天翔は満足そうに笑って酒瓶を取りに行く。
一体、どんな顔だ?
すぐに天翔が一升瓶を片手に戻ってきた。
なるべく雪に足の裏をつけないよう、爪先立ちで跳ねるようにして移動し、再び湯船へどぼんと派手に飛び込んだ。
跳ねた湯がかかり、夜叉月は思わず顔を顰めた。
「はぁー……それにしても、また最近二人の雰囲気変わっとらん?やたらお前が腑抜けてるというか……何かあったんか?」
気分がまぁまぁいいので、「腑抜け」という言葉は聞き流してやる。
「……絢に、過去のすべてを知られた」
「はぁ?!」
ばしゃっと音を立てて立ち上がった天翔は、持っていた猪口を湯船の底へと落としてしまい、慌てて両手で探りながら再びしゃがみ込んだ。
「なんでや?!」
「黒衣が真尋を操って……輪廻の鎖石の記憶が暴走した」
「は?!お、おい、お前と絢は……大丈夫なんか?真尋はどうした?」
「真尋はちゃんと鎖石の中にいる。絢は……」
言いかけて、あの日記憶の波から目覚めたときに、絢の向けてくれた笑顔が脳裏に蘇る。
『―――絢との、約束です』
胸の奥が、じんわりと心地よい熱で満たされていく。夜叉月は小さく微笑みながら、天翔を見据えた。
天翔は目を丸くして、折角見つけ出した猪口を再びちゃぽんと落とす。
「絢はあの通りだ。彼女はいなくならない。ずっと俺の傍にいる」
「……は?おま……俺に、笑っ……」
「お前に笑ったわけではない」
すっと表情を戻し、天翔を冷ややかに睨みつけた。だが天翔はそれが見えていないかのように、感動に浸った目をしている。それが少し腹立たしい。
夜叉月は呆れて軽く息を吐き出し、再び猪口を口元へ運んだ。
そのまましばらく静かに酒を煽っていたが、夜叉月の脳裏に一つの考えが過った。
「天翔、頼みがある」
「ん?」
「今日は夕飯の時間まで、私と絢に時間をくれないか?」
「……っ!お前が俺にそんな頼み事する日がついに来たんか!おう、任せときぃ!俺が一肌も二肌も脱いだるわぁ!!」
天翔はやけに気合いを入れた様子で、にかっと笑いながら力こぶを作り、トントン叩いて見せた。
「あ!でも嫌がる絢に無理矢理……は絶対あかんで!」
天翔が顔の前で両手の人差し指を交差させた。
夜叉月は思わず口に含んだ酒を噴き出しそうになる。なんとか耐えると、口の端から一筋垂れたのを肘で拭って、天翔を鋭く睨みつけた。
「……誰がそんな真似をするか。彼女とゆっくり話がしたいだけだ」
「念のためや、念のため!せやけど、これ以上の忠告は野暮っちゅうもんやな」
「……」
もう何を言っても無駄だろう。夜叉月は否定するのを早々に諦めた。
「そういうお前は?」
「ん?小春?俺らは……なんや兄妹みたいなもんやけど……」
「小春のこととは、言っていないが」
「……」
天翔が少しだけ大人しくなった。それから空をぼんやり仰ぎ見て、何やら考え込んでいる。
「まぁ、可愛ええとは思っとるよ、たまにな」
「……そうか」
別に二人の仲がどうなるかなど、今まで気にしたことはないが、いざ天翔の口からそう聞くと、少しだけ表情が緩んだ。
夜叉月は天翔に悟られぬよう、猪口を持った手で口元を隠しながら、ちびちび酒を呑み干した。
すっかり身体が温まった。火照った肩を湯から出し、肘を背の岩に預けて脱力する。
空を見上げれば、ちらちらと舞い落ちる無数の雪の花。それらが火照った肌に溶けてゆく感覚が心地よくて、夜叉月はそっと目を閉じ、その微かな冷たい刺激を味わっていた。




