第三十九章 箱根温泉雪見酒 【前編】
がたがたと揺れる馬車の中、隣に座る天翔がこそこそと夜叉月の耳元へ囁いてきた。
「なぁなぁ、夜叉月。『なんでお前まで来た。邪魔だ』とか言うて、舌打ちとかせぇへんの?」
「お前は俺をなんだと思っている。……絢とともに旅行など、俺には十分すぎる幸福だ。これが絢と二人では……罰があたる」
「え?何かの冗談?最強の刀神にバチなんか当てられる奴がどこにおるねん!」
「ああ」
「ああって……ほんまに絢しか見えとらんなぁ!」
呆れ返る天翔には目もくれず、夜叉月はひたすら反対隣に座る絢へと視線を注いでいた。外の景色を珍しそうに眺める彼女の横顔は、見飽きるということがない。
「寒くはないか?」
窓枠に添えられていた絢の手をそっと包むと、絢はきょとんと目を丸くしてから可笑しそうに笑った。
「何を言っているんです?あなたは私が寒くないようにと、すでに十分してくれているではありませんか」
「それでも……心配なのだ」
「過保護が過ぎます、夜叉月は。本当に、困ったものです。ふふっ」
全く困ってなさそうな笑顔で、手を握られたまま微笑み続ける絢。その指先からは、ぽかぽかとした彼女の体温が伝わってくる。夜叉月は柔らかく目を細め、ただじっと絢の表情を見つめていた。
「えぇと……最近のあなたの甘さは、以前にも増して破壊力が……」
「ん?」
「いいえ……何でもありません」
言いながら、少しずつ視線を逸らしていく絢。普段ならその愛らしい反応に笑いが込み上げてくるようなものなのに、今は寂しさを覚えている。絢の顔に手を添え、もう一度こちらを向かせてみようか……いや、やめておくべきだ。
絢がそのまま再び窓の外を眺めだす。
―――ずっと私だけを見ていればいいのに。
自分でも自覚している。最近の私は、どうかしている。
今朝は早くから天翔とともに小さな手提げを手にし、常磐堂へと向かった。絢と小春と合流し、一行は東海道線の蒸気機関車に揺られて小田原へと降り立った。
そこから馬車鉄道に乗り継ぎ、いよいよ箱根の山中へと分け入っているところだ。
「なんか最近、やっぱ夜叉月おかしない?」
「……その心は、絢姉ちゃんの元にしかあらず! ねぇ、何か前よりひどくなってる!」
「せやな……まぁええか!なんか絢も嬉しそうやし」
「全然良くない!」
「え……その顔やめてぇな!」
天翔と小春がいつものようにひそひそと言い合っているが、夜叉月はそんなものまるで気にならなかった。
馬車を下りてからは、急勾配の山道を進むために人力車で移動する。二人引きの人力車で、一人が車を引いて、もう一人が後ろから押し上げるのだ。
夜叉月が絢に手を差し出して一緒に乗り込もうとすると、すかさず小春が間に割って入る。
「ちょっと待った!!さも当然のように絢姉ちゃんと二人で乗る気?!」
夜叉月は正直、小春の存在を忘れかけていた。彼女の声を浴びて、夢見心地だった脳内が、少しだけ現実に引き戻される。
「はーい、小春! 俺、ええもん持ってんで! 小春の好きな、あまーい、あまーい……何やと思う?」
天翔がにやり顔で小春の傍へ歩み寄り、持っていた小包を目の前で揺らして見せる。小春の視線が、すぅーっとそちらに吸い寄せられていく。
「俺と一緒に乗った人には、もれなくこれあげまーす!」
「……っ!!」
小春は生死を分ける選択に直面したかのような切迫した表情を浮かべた後、一度だけ夜叉月を睨みつけた。
「あ、絢姉ちゃんに変なことしないでよねっ!」
「……」
そのまま天翔の背中を追いかけ、そちらの人力車へと飛び乗っていった。
甘味ごときで、大事な絢を手放すとは……お前はそれでいいのか?
もちろん、夜叉月としては小春がそちらに靡いてくれた方がありがたいのだが、同じく絢を想う者として、小春の判断は少々心配になった。
……まぁ、結局のところ、あいつらもそれなりに上手くいっているということだな。
夜叉月は勝手に納得し、それ以上二人のことを考えることはなかった。
人力車の座席に腰を下ろすと、先に座っていた絢が、柔らかな微笑みを浮かべて待っていた。
山道を進む中、夜叉月の視線は絢から離れない。絢があれこれと景色を指差しては夜叉月に説明してくれているが……声に聞き惚れるばかりで、内容はどれもこれも入ってきはしない。
「夜叉月?聞いていますか?」
「あぁ、もちろん。聞いているさ」
「でも、ちっとも周りの景色を見ていないように思えるけれど?」
「それはそうだ。絢しか見ていないから」
心のままにそう伝えれば、絢は案の定、頬を真っ赤に染め上げた。
「も、もう!折角箱根に来たんですから、普段とは違う景色もちゃんと楽しんでくださいっ」
「これ以上ないというくらい、楽しんでいるというのに……」
「いいから!」
絢が夜叉月の腕を掴み、もう一度説明を始める。絢に咎められ、今度こそ一緒に景色を楽しもうと目を凝らしたのだが、触れられている腕の熱に意識を奪われ、やはり景色どころではなくなってしまった。
やがて絢が膝の上に地図を広げ、次の目的地についての解説を始めた。
「いいですか?ここが芦ノ湖畔です。ここに箱根神社があって、そこから望む富士山がですね……」
「あ、あぁ……」
夜叉月の空返事にすぐさま気づいた絢が、不満気に目を細めて夜叉月を覗き見た。これはまずいと、慌てて弁解する。
「絢、すまない。違うんだ」
「後で二人で見に行きたいんです!折角誘おうとしているのだから、一緒に興味を持ってください」
「……」
……二人……で?
不意に告げられた愛らしいお願いに、夜叉月は思わず黙り込んでしまった。
絢を不安にさせぬよう、浮わついてばかりではいけない。夜叉月は気を引き締めて姿勢を正し、絢の話に真摯に耳を傾けることにした。
「悪かった、絢。少し浮かれすぎていたんだ。ちゃんと聞くよ」
絢はきょとんと目を丸くした後、ぱぁっと嬉しそうに表情を和らげた。
どうやら絢には行きたい場所がいくつもあるらしいが、通常の移動手段ではとても一日では回りきれない。絢もそれに気づいて悩んでいるようだ。
しかし夜叉月は、絢が行きたいと言った場所のすべてへ、一瞬で連れてってやるつもりだ。時間は問題ない。ただ空間移動の術を使うには、移動先をなるべく鮮明に思い浮かべなければならない。
そこからの夜叉月は凄まじい集中力を発揮し、地図の配置と絢の話から推測される風景を脳内に作り上げていく。
先ほどとは一転して真剣な面持ちの夜叉月を、絢は不思議そうに見つめていた。
「ふぅ……これで何とかなりそうだな」
「何がです?」
「いや、こちらの話だ」
絢が地図を折りたたんだのを確認し、夜叉月は手提げから真新しい掛け物を取り出すと、そっと絢の膝にかけてやった。
「ありがとうございます。……これ、見た目より随分と暖かいですね」
「当然だ」
「ふふっ……あなたといると、冬が機嫌を損ねてしまいそう」
「そうか? 私は、あなたの手を堂々と温められるこの冬に、心から感謝しているけれど?」
「またすぐにそのようなっ……」
少し慌てた絢が、そのまま俯いてしまう。
絢に怒られないよう、反対側を向いて笑いを隠していると、こてん、と絢の頭が夜叉月の肩に置かれた。突然のことに、夜叉月の肩が小さく跳ね上がる。
振り返れば、先程よりもぐっと距離が縮まり、夜叉月の腕に絢の腕がそっと巻き付けられた。座面についた夜叉月の手に、絢の手が指先を絡めるように重ねられる。
「では、私も。……冬の恩恵に与ろうと思います」




