第三十八章 動き出した約束 【後編】
「お帰り、絢、夜叉月くん」
「ただいま、お父さん」
絢を常磐堂へ送り届けると、人の良さそうな笑みを浮かべた店主が出迎えてくれた。
夕澄が飛び出してくるかと思ったが、どうやらまだ神社の激務に忙殺されているらしい。
「寒かっただろう。夜叉月君も上がっていきなさい。今温かいお茶を入れるから」
絢に手を引かれるまま、火鉢の傍らに座らされた。室内は温かく、夜叉月の髪に積もっていた薄雪はすぐに溶けて、前髪から一雫伝い落ちる。
すると、視界にふわりと手ぬぐいが垂れ下がってきた。
「絢?」
「風邪をひいてしまいます」
「ふっ……刀神は風邪などひかぬ」
「見ているこっちが風邪をひいてしまいそうです!」
絢が手ぬぐいでわしゃわしゃと夜叉月の濡れた髪を拭き取っていく。火鉢の温もりなど比較にならないほど、手ぬぐい越しに伝わる彼女の体温が心地よい。そのままずっと身を任せていたいとさえ思うほどに。
「ちょっと待っていてください」
絢は奥から柘植の櫛を持ってくると、夜叉月の長い漆黒の髪を丁寧に梳いていく。
「ツヤツヤですね」
「絢の髪ほどではない」
絢は夜叉月の長い襟足をひとつに束ね、くるりとまとめ上げた。それを押さえながら彼女がすっと手を伸ばす。
背後から抱きしめるように差し出された腕に、夜叉月は一瞬身を硬くした。彼女の手は帯の結び目あたりで止まり、挿されていた簪を引き抜いた。
「ちょっとお借りしますね」
絢の邪魔にならないように、軽く顔を向ける。絢は簪を横にして口に咥え、夜叉月の髪を楽しげに弄んでいた。目が合うと絢は一度にっこり笑い、それから少し真剣な顔つきになって髪の仕上げに取り掛かる。夜叉月は絢の手によって、優しく正面を向かされてしまった。
「できました!」
絢が夜叉月に小さな鏡を手渡す。
普段流されているか、組み紐で適当に束ねられていた髪は、頭の後ろで上品な団子に結い上げられていた。首の後ろがやけに涼しく感じられ、少し落ち着かない。
その端で小さく揺れる、硝子でできた蓮の雫。
「お揃いですね」
絢が顔を傾けて、自分の髪に飾られた同じ蓮の雫を揺らしてみせた。それがなんだか嬉しくて、夜叉月は何度もそれを傾け、揺れる感覚で遊んでみる。
「それにしても……こんなに色っぽいとは……。この姿で外を一人では歩かせられませんね」
「ははっ……なんだそれは」
「せめて自覚は持っていてくれないと困ります」
絢が腕を組んで難しそうな顔をしているのが、可笑しくて仕方なかった。
「お茶が入ったよー」
夜叉月が立ち上がって、店主から手際よく盆を受け取り、卓の上へ並べていく。店主は惚けた顔をして夜叉月の甲斐甲斐しい動きを目で追っていた。
「お父さん?」
「あっ!いやいや……本当に良かったね、絢」
「……え?」
「そう言えば!!頼まれていたことがあったんだ」
夜叉月が座り直すなり、店主が何かを思い出したように勢いよく立ち上がった。奥の帳場でガサゴソと引き出しを漁っている。
夜叉月が湯呑を持ち上げると、表面に綺麗な茶柱が立っていた。これは縁起が良いものだったか。ゆっくりと眺めてから、ずずっと熱いお茶を啜る。冷えた身体がじんわりと芯から温まっていく。
夜叉月は先程の冷たい雪空の下での、絢との夢のような時間を思い出していた。どれほど寒かろうと、絢と過ごすあの時間が永遠に続けばいいとさえ思えた。雪の冷たさを思い出しながら、心は反対に熱を持つとは、なんて不思議なものか。
「あぁ!あったあった!!これだよ!!萬太郎君がね、夜叉月君に渡してほしいと預かったんだ」
「萬太郎?」
夜叉月は店主の声で現実へと引き戻された。
一枚の紙を手に戻ってきた店主が、それを卓の上へ広げる。夜叉月と絢が揃って覗き込んだ。
「箱根……温泉……?」
絢が読み上げると、店主は頬杖をつき、穏やかな笑みを浮かべる。
「萬太郎君が、この間の刀の手入れのお礼にと置いていったんだよ。絢と一緒に行ってきたらどうだい?」
「いいの?!お父さん、私行ってみたい!夜叉月、一緒に行ってもいいですか?」
「いいかい?くれぐれも夕澄には知られないように」
店主が顔を近づけて小声で言うと、絢は真剣な眼差しで大きく頷く。
その隣で一人、夜叉月だけが思考を停止させていた。
……待て。この親子は今、何と言った?
夜叉月は目を見開いて固まっていた。
父親というものは、大事な一人娘が男と旅行へ出かけるなど、決して許さぬものだと聞いたことがある。だが、この父親は例外らしい。
絢は絢で夜叉月との旅行を何の躊躇いもなく二つ返事で承諾している。しかも父親の目の前でだ。
近年の父娘関係とは、夜叉月の思い描くそれとは大きく変わったらしい。それともこの親子が特殊なのか。
「でもこれ……四名様ご招待ってあるけど?」
「天翔君と小春ちゃんも誘ったらどうだろう?」
「そうね!いいかも」
何も答えられずにいる夜叉月を置き去りに、二人の会話はどんどん進んでいく。しばらく沈黙していた夜叉月を、絢が心配そうに覗き込んできた。
「あの……夜叉月?どうですか?一緒に……行ってもいいですか?」
「ぜ、ぜひ……」
ようやく絞り出せたのは、たったそれだけ。
絢と旅行……。とてつもなく甘美な響きに、夜叉月は思考回路が焼ききれそうでくらくらしてきた。
今日はあまりにいろいろなことが起こりすぎた。いつもの冷静な判断なんて、とても出来そうにない。
夜叉月は卓の上に広げられた「箱根温泉」の言葉を、ただ何度も何度も穴が開くほど読み返していた。




