第三十八章 動き出した約束 【前編】
絢が顔を離し、視線を向けた先に真尋の背があった。
真尋は夜叉月たちを庇うように立ち、その手には童子切が握られ、目の前のやせ細った男、黒衣に切っ先を向けていた。
今の真尋に実態はないので、実際には繋がれた鎖によって童子切を動かしているのだ。
……真尋?
「夜叉月様の意識が戻らぬ間に手をかけようなどと……ふざけるなよ。お前ごときに、触れさせるものか」
「くっくっ……あのお方がお前を気に入るのも分かる。操られても尚、己の芯を見失わないのだな」
「黙れ」
「まぁよい、真尋。いずれお前の方からあの方の元へ来るはずさ」
恍惚とした不気味な笑みだけを残し、黒衣はゆっくり闇へ消え入った。
姿が完全に見えなくなると同時に、真尋の身体が支えを失ったように倒れ込んだ。
「真尋!」
思わず飛び出して、真尋の身体へ手を伸ばした。しかし実体のない幻影は夜叉月になんの感覚も与えずにすり抜ける。
その身体が地面に触れる直前、真尋を形作っていた光の粒子が弾け、童子切に巻かれた重々しい鎖の奥へと戻っていった。
「真尋っ!真尋……!」
もう一度その名を叫び、真尋の代わりに童子切を強く引き寄せて胸に掻き抱いた。
そこにまだ気配が残っているかを確かめるように、何度も、何度も童子の名を呼び続ける。
「大丈夫です。真尋は眠っています」
童子切を力任せに握りしめていた拳に、横からそっと温かい手が重ねられた。そこから伝わってくる熱で、夜叉月は少しずつ正気を取り戻す。
「帰りましょう、夜叉月」
絢に優しく手を引かれ、ゆっくりと歩み出す。
夜叉月は一気に千年の過去を遡り、あまりに膨大な業と情を追体験したことで、いまだに心の整理がつかずぼんやりとしていた。
ただ指先から伝わる温もりと光に導かれるように、絢の背中だけを見つめて前に進む。
こんなことではいけない。
絢だって、あの惨劇の記憶を見たはずだ。平気なわけがない。絢は……私を、どう思っただろう。
「絢っ……」
言葉をかけようとしたが、何を口にすればいいのか分からない。
「夜叉月……見てください。雪ですよ」
人通りの少ない街灯の下。
そう言って振り返る絢の黒髪に、小さな白い結晶がひらりと舞い降りた。次から次へと夜空から舞い落ちる白を、どこか楽しそうに仰ぎ見る絢の横顔に、夜叉月は胸を撫で下ろす。
「絢……辛い思いをさせて……すまない」
ふっと笑みを消し、絢がじっとこちらを見つめてくる。それだけで一気に緊張が押し寄せ、身体が強張った。
絢が一歩近づいて手を伸ばすと、夜叉月は思わず身体を竦めて後退りしてしまう。しかし、絢は気に留めず、もう一歩踏み込むと、その両手で夜叉月の頬をそっと包み込んだ。
「……っ」
「辛い思いをしたのは……あなたの方では?」
夜叉月は何も答えられない。
すべて私が悪いというのに、辛いなどと……私が言葉にしていいはずがない。
「あなたは……とても繊細で、純粋で、本当はどこまでも優しくて―――昔も今も、何一つ……変わらないのですね」
「絢……何か、思い出したのか?」
「いいえ。あなたの物語は……とても遠い、哀しい御伽噺のようで……」
喉の奥がひゅっと狭まって、息がしづらくなっていく。
分かっていたことだ。落ち着け。
「凄惨な過去を一人で背負ってきた夜叉月を思うと、胸が張り裂けそうです。それは私が辛いわけではありません。でももし……私に辛かったことがあるとしたら……それは、どこまでも夜叉月の中に『清香さん』がいるってことですね」
「え……」
「私は『絢』でしかなく、清香さんとは違う人間です。私だけを見ていてほしいと願うのは、我が儘かもしれないですが……女とは、そういうものなのです」
夜叉月にはよく理解できなかった。清香の魂は完全に絢として生まれ変わり、目の前にいるのは紛れもなく愛しい彼女なのに……絢は「違う」という。自分はただ目の前の絢だけを見つめているのに、彼女にはそう映っていないらしい。
「私は、どうしたら……」
「今の私を見てほしいです。清香さんの生まれ変わりとしてではなく……ただの『絢』として」
「よく……分からないんだ。それは今と何が違うのか……。これ以上、あなたを不安にさせたくはないのに」
「そうですね。では約束をかわしましょう」
「約束?」
絢がもう一歩身を寄せた。お互いの着物の布が触れ合うほどの距離。
橙色の街灯が照らし出す雪の夜。どこまでも澄んだ瞳で見つめられるのは、あまりに幻想的で、まだ夢の中にいるような気さえする。
「もし私たちが、離れ離れになってしまっても、私があなたを見つけます」
「……絢?」
「私が……あなたと真尋を救う光になりましょう」
「……っ!」
「この命が自然と尽きるその時まで……私は生きて、あなたを二度と一人にはしません」
絢が夜叉月の手を取り、互いの小指を絡ませた。愛おしそうに目を細める彼女の笑顔が、夜叉月を見上げる。
「これは……『絢』との、約束です」
「絢……」
再び溢れ出した涙を止める術も知らず、それはただ頬を伝って真っ白な地面へと落ちて行く。
「ふふっ……羅刹とは何ですか?こんなにも美しい瞳や、純粋な心を持っているものなのですね。私にはとても眩しく見えます」
「絢……っ!」
絢に触れたくて背に手を回そうとしたが、それより早く、絢が両手で包んでいだ夜叉月の頬を引き寄せ―――彼女の唇がそっと夜叉月の唇に重なった。
夜叉月はあまりの驚きに、身を固くし呼吸すら忘れてしまう。閉じられた彼女の瞼の下で長い睫毛が微かに揺れる。迷い落ちてきた雪が一片、その睫毛の上に優しく降り積もる。
やがて瞼が開かれると、瞳を飾った雪に橙の光が反射し、彼女の笑顔を眩しく彩った。
溢れる涙とともに、胸から湧き上がる想いも、留まることを知らず―――
「こんなの……許されるわけがない……」
「誰が許さないと言うんです?私の想いは私の勝手です。他の誰が何を言おうと、関係ありませんから。私の好きにします」
「こんな……こんなこと……っ」
「ふふっ……往生際が悪いですよ?私にこんな想いを抱かせたのはあなた自身です」
絢はクスリと笑うと、夜叉月の手を優しく包み直した。
「あなたに伝えたいことは山程ありますが……今夜はこのお天気です。このままでは風邪をひいてしまいますから……帰りましょう、夜叉月」
「絢の……想いとは……どんな?」
「……まだそのようなことを。ご自身で考えてください。ほら、行きますよ?」
再び手を引かれ、歩き出す。
「なんだか、今日の夜叉月は、まるで子どもみたいですね?でも不思議。あなたには子どもの頃なんて、なかったでしょう?」
「私も……こんな自分は知らない。絢といると見たこともない感情が溢れて……どうにかなってしまいそうだ」
「……」
絢がぴたりと足を止め、夜叉月の顔をまじまじと覗き込んできた。泣き腫らした顔を見られるのが今更になって恥ずかしくなり、夜叉月は袖で顔の半分を隠しながら、ぱっとそっぽを向いた。
横目で絢を見れば、彼女は満足そうににっこりと微笑んでいる。
「な、なんだ……」
「いいえ。こんな夜叉月を見られたのが、この世で私だけだと思うと……とても嬉しくて」
「……っ!」
それ以上、嬉しそうな彼女の瞳に見つめられることが耐えられなくなり、夜叉月は絢の肩に手をかけると、くるりと彼女の向きを反転させた。そのまま軽く背を押して前を歩かせる。絢は夜叉月の意を汲んで、大人しく前を進んだが、口ずさむ鼻歌は妙に楽しそうだった。




