第三十七章 絢 【後編】
数日が過ぎた。
夜叉月は未練がましく、彼女の屋敷の傍を離れることができずにいた。己の姿を隠し、外へ出てくる彼女をひと目見ようと身を潜めるだけの日々。しかし、彼女をその目に映しても、胸の傷口が広がるばかりで、心が満たされることはなかった。
ある静かな晩のこと。木の上で月を仰いでいた夜叉月の耳に、ふと彼女と夫の話し声が聞こえた。
「なぁ、よし乃。……もし俺が戻らねば、この屋をたたんで実家へ戻れ。お前はまだ若い。別の引き取り手などいくらでもあろう」
「……私を路頭に迷わせるおつもりですか?そのおつもりなら、どうぞ討ち死になさってください」
周辺では東西両軍の動きが活発化していた。どうやら武将であるらしいこの男も、間もなく出陣が決まっているらしい。
「ですが、生きて戻るとお約束くださるのなら、私はこの屋敷を死守してお待ちします」
「ふっ……口の減らぬ女だ。よし乃……これをお前に。お守りだ、持っておけ」
男はそれだけを言い残し、部屋を後にした。
いっそ、この男が戦で命を落とせば―――
そうしたら、彼女だけ救い出して守れば良い。今はまだ私のことを思い出せなくとも、もう一度ともにいられれば、彼女だって―――
夜叉月は音を立てずに木から飛び降り、陰から部屋を覗き込んだ。
「……っ!」
そこで見た彼女の姿に、夜叉月は息を詰まらせた。
彼女は床に蹲り、声を押し殺して泣き伏していたのだ。近くの部屋にいるであろう夫に、その声を聞かれぬよう。最後まで気丈な姿のままで彼を送り出せるように―――
彼女の胸元には、夫から託された短刀がきつく抱えられていた。
夜叉月はそれ以上彼女の姿を直視できず、逃げるようにその場を離れた。
それから数日、彼女は着物の綻びを縫い直し、出陣の武具を整え、休みなく夫の出陣の準備に明け暮れていた。
そして……ついにその日は来た。
その朝も、冷たい雨が降り続いていた。
男は漆黒の甲冑を纏い、馬に跨った。兜の緒を締める手が微かに震えると、よし乃は駆け寄り、泥が付くのも構わずに馬の口持ちの前に立つ。よし乃は冷雨に濡れながら、真っ直ぐに夫を見上げた。
「……お気をつけて。ご武運を」
「……行ってくる」
男は笠の庇を深く下げ、一言だけ告げるとそのまま馬を走らせた。男の姿はあっという間に、闇と雨の向こうへと消えていく。
その背が見えなくなると、よし乃は泥の中に膝をつき、夫が去った暗闇に向かって深く深く額を擦り付け、祈りを捧げた。
容赦なく降り注ぐ秋雨。彼女の覚悟を目の当たりにし、夜叉月はついに手を差し伸べることすらできなかった。
その後、夜叉月は誰に見送られることもなく、たった一人、男たちの消えていった闇の中へと歩みを進めた。
あの男に下された命は、生きて帰れる見込みのない決死隊、「先鋒」としての出陣だった。
夜叉月はその決戦の地となった盆地を、空高くから俯瞰していた。
そこは、深い朝霧と冷雨が引き裂かれ、血煙と硝煙が立ち込める凄惨な地獄絵図と化している。
この中から小さな気配をたどって彼女の夫を探し出す。
(あそこか)
彼の率いる小さな手勢は、前線で敵軍の猛攻に晒され崩壊寸前だった。夜叉月は童子切に手をかけ戦場へ跳び下りた!
自分で自分が可笑しくて仕方がなかった。
刀神たる者が、このような人間同士の争いに干渉し、よりによって会ったばかりの男一人を救おうというのだから。しかもその相手は、気が狂いそうなほどに探し求めた彼女が、何よりも大切にしている男なのだ。
最早、自分のしようとしていることは正気の沙汰ではない。
『お前の好きにしたらいいんだ。愛したいものを愛し、救いたいものを救えばいい』
はっ!こんな時に思い出すとは。あの自由奔放な菩薩の言葉を。
あぁ、どういうわけか、今あの男を死なせたくない気分なんだ。普賢様、見届けているんだろう?どうか私の代わりに笑ってくれ。
もっと早く、こうすればよかったのだ。
満が生け贄に捧げられる時、村人どもを殴りつけて彼女を救えばよかった。
愛し方は分からなかったが、真尋のことを大切に思っていると、言葉にして伝えてやればよかった。
清香が現れてくれてよかったと、もっと早くに伝えていればよかった。
護法善神としての務めに縛られ、感じた違和感の数々を押し殺し、それこそが使命かのような錯覚に身を任せ、考えなかったのは己自身。
最初からすべて、己のやりたいようにすればよかったんだ。普賢様……あなたの言葉の意味を、私がもっと早くに理解できていれば―――
地獄と化した戦場の中心に、黒の袴をはためかせた刀神が降り立った。
深手を負ったのか、片膝を付く彼女の夫の甲冑は朱に染まり、握りしめた刀は刃こぼれして折れかけている。すでに馬は射殺され、周囲の配下たちも次々倒れ、残った部隊の背後にも敵の長槍が迫っていた。
突如現れた乱入者に、敵味方の双方は一瞬時が止まったかのように動きを止めた。
夜叉月は死を覚悟したような男の目を見て、軽く舌打ちした。
「お前がそんな様子でどうする。妻がお前を信じて待っているのだろう」
夜叉月はそれだけを言い捨てると、泥を跳ね返して地を蹴った。
身を低く沈め、槍の隙間へ潜り込むと、数人の足を一気に斬りつけた。次の瞬間には、彼らの頭上高く跳躍し、身を翻しながら背後に回って首を跳ねる。夜叉月を見失い、狼狽して首を振る者の横に舞い降り、手首ごと槍を斬り落とす。
そうして包囲していた長槍の部隊を次々と叩き斬っていった。
周囲の部隊も異変を察して押し寄せたが、どれほど数を揃えようが夜叉月の敵ではない。
甲冑すら身につけず、雨の中を軽やかに躍動しながら刀を振るう姿に、誰もが言葉を失い恐怖に竦んだ。この刃に向かって踏み出せる者など―――誰一人いはしない。
「まるで……鬼神だ」
ふと呟くあの男の声が聞こえた。
(当たらずも、遠からず……だな)
夜叉月は相変わらず、随分と冴え渡った心地よさの中にいたので、その男の言葉もやけに愉快に思えた。
気がつけば、この男たちの属する東軍はかなり優勢となり、周囲から敵の気配は消え去っていた。
夜叉月は、あの男が味方の兵に抱えられていくのを見届ける。
去り際に男が振り返った。
「あなたは……よし乃を知っているのですか」
「……いや」
夜叉月は踵を返し、戦場を去った。
そしてそれ以降、夜叉月がよし乃の元を訪れることは二度となかった。
これで、いい―――。
また気が遠くなるような時が過ぎるだろう。あなたを探す。
きっとまた、あなたは私を知らないし、約束が果たされることもないのだろう。
もう……あなたに何かを望んだりはしない。
それでも、再びあなたに会いたいと願ってしまう。それだけが、私がこの生に留まる唯一の理由なのだから―――
『―――必ず、あなたを見つけますから』
―――夜叉月
遠くで声が聞こえる。とても澄んで、清らかな声。
『夜叉月』
清香が輪廻に身を投じてから、あなたに呼ばれることはなかった私の名
『夜叉月……っ』
ずっと呼ばれたかった……この声は……
「夜叉月!目を開けて!夜叉月!」
今度ははっきりとその声が鼓膜を揺らし、途端に白檀の香りが夜叉月を包み込んだ。
夜叉月ははっとして完全に瞼を開く。
「……絢?」
「そうです! 絢です! 夜叉月……っ!」
遠くにあった意識が引き戻されていく。
心配そうに歪めた絢の顔が、真上にあった。夜叉月の頭は、座り込んだ絢の膝に乗せられ、背には絢の腕が回されて抱きかかえられていた。
絢が、そっと夜叉月の頬を指先で拭った。
その手はどこまでも暖かく、夜叉月の心を満たしていく。
―――あぁ、そうだ。この温もりだ。やっと……やっと、思い出した。
絢の澄んだ瞳から目を離せずにいると、彼女は顔を寄せ、額同士を重ね合わせた。
「お帰りなさい……夜叉月」
確かに自分だけに向けられた愛しい声に、夜叉月は溢れ出す激情を抑えきれず、下から絢を引き寄せ、きつく抱きしめた。
第四幕完結
次章より、再び明治の世に戻り、絢の手を取る夜叉月!
お楽しみに!




