第三十七章 絢 【前編】
百年ほど、時が流れた。
不思議と仏界からの追手に見つかることもなく、夜叉月はただ下界を彷徨い続けていた。
行く宛のない放浪を重ねるうち、己が何者であったかさえ忘れてしまいそうになる。揺らぐことのない感情は、日に日に削がれ失われていくようで―――。
こうしてみると「冷徹な刀神」と呼ばれた自分も、真尋や清香と過ごした日々の中で、すっかり人間くさい男になっていたらしい。今となっては、笑い方さえ思い出せないが。
ある日、人里離れた山中を歩いていると、突然瞳の奥が疼き出した。痛みとは異なる覚えのない感覚に思わず目頭を押さえる。視界が眩い光りに包まれ、周囲の景観が掻き消えた。
何だ?!これは!
その光の中にぼんやりと一つの情景が映し出される。最初は朧気だった像が、徐々に鮮明になっていく。
映し出されたのは、鬱蒼とした参道。そこに生い茂る植物をよく見れば、まさに今、自分が歩いてきた山道そのものであった。だが脳裏に描かれるそれは、途中の渓流を渡ることなく、そのまま斜面を下っていく。その先にはひっそりと佇む一軒の粗末な小屋があった。
光の光景が切り替わる。小屋の仲だろうか。薄布を被せられた女が床に横たわっている。音は聞こえないが、肩を激しく上下させて咳込んでいるようだ。病を患っているのだろう。
その時、輪廻の鎖石が夜叉月の魂を締め上げた!突如、呼吸すら奪う痛みが全身を襲う。
『怖い!!あの女だ!!夜叉月様、嫌です!またあの女が現れたんだ!僕から夜叉月様を奪う、あの女が!!!』
昼間だというのに、真尋が理性を失ったように叫び出した。その叫び声とともに幻を見せていた光が消散し、視界は元の静まり返った山林へと戻る。
あの女……?清香のことか……?
今目にしたのは……予知の法……? まさか―――。
鼓動が大きく跳ねた。己の中でその答えに辿り着くより疾く、夜叉月は駆け出した!
胸が引き裂かれるように苦しい。だがこれは輪廻の鎖石に締め上げられる痛みとはまるで違う。
着物の前合わせを握りしめながら山を駆け抜ける。
そうだ……この魂の奥底には清香が遺してくれた「欠片」が刻まれていたはず。今見たのは、彼女の欠片が呼び寄せた予知―――!
どこだ!まだか先程の川は!!
遠くから、微かなせせらぎの音が届いた。蛇行する山道を辿るよりも疾いと判断し、崖を飛び降り、道なき茂みを切り裂いて、木々の枝を飛び渡る。
急激に生きる力が満ち溢れていくように、心が狂おしく焦り立つ。
渓流が眼下に見えた。崖を滑り降りてさらに深く下ると―――ついに、予知で目にしたあの小屋に辿り着いた。
(本当に……あった)
木の陰で上がった息を整え、改めてその小屋を見る。夜叉月の胸底から、言葉にならない感情が込み上げ、息を呑み込んだ。
―――がららっ!
戸が開かれ、中から体格の良い男が出てきた。
「千代、また薬草を採ってくるから、大人しく寝ていろよ」
返事はなく、中からは乾いた咳だけが聞こえてきた。心配そうに出ていった男は父親だろうか。
夜叉月は半開きの戸へ近づいて、中を覗く。戸口に差した影に気づいたのか、千代と呼ばれた女がこちらへ顔を向けた。
その澄み切った瞳を見た瞬間に確信した。彼女は清香の魂を宿した生まれ変わりだ―――
だがそう悟ったのと同時に、彼女の命が再び消えかけているということまで分かってしまった。
まだ幼さの残る千代は、虚ろな瞳に夜叉月を映したが、驚く様子もない。ただ表情なくこちらを見つめている。
「ど……なた……?こんな山奥に、人が来るはずも……ないのに……」
幻覚だとでも思っているのか?私だ、清香―――
「とても……美しい……ごほっ、ごほっ!……神……様?」
「……何か、願いでもあるのか」
「いいえ……父が、悲しむことだけが心残りでございますが……私は十分に愛され、幸せでございましたから……」
「……そうか」
あなたはいつだって人のことばかり。私のこと、真尋のこと……今度は父親のことか……
千代とかわした言葉は、たったこれだけだった。
間もなく父親が戻り、薬草を煎じる匂いと音が静かな部屋に満ちていく。
夜叉月は、それから毎日その場所にいた。父親は毎日薬草を煎じ続けたが、千代の病状が改善することはなかった。
そして季節が変わる前に、彼女は静かに息を引き取った。父親の咽び泣く声を、小屋の外で聞きながら、夜叉月は焦点も定まらず、ただ茫然と目の前の景色を眺めていた。
相変わらずの無力さを噛み締め、そして……永遠に果たされることのないであろう「約束」に想いを馳せる。
父親が千代のために置いた墓石に一輪の花が添えられた。
それを見て、夜叉月はかつての「清香の花畑」を思い出した。同じように千代の墓も飾ってやりたかったが、羅刹の自分にそんな美しい奇跡を起こす力などない。
夜叉月は静かに山中へと入っていく。かつて幼い真尋がしたように、野に咲くありとあらゆる花を摘み、腕いっぱいになる度に戻っては、墓石の周りに添えていった。幸いにもこの季節、花を見つけるのには苦労しなかった。摘んでは飾り、また摘みに出る。それを一晩中繰り返した。
翌朝、千代の父親が小屋から出てくると、一面色とりどりの花が彼を出迎えた。驚愕に目を丸くする彼を、木の上からそっと見届け、夜叉月はその地を後にした。
千代に……悲しみではない父親の表情を、一瞬でも見せることができただろうか―――
それからさらに五百年ほどの歳月が流れた。
夜叉月は近江の国境付近を彷徨っていた。
秋雨が降り続く下界は激動の時代、戦乱に明け暮れ、混迷を極めていた。そんな血なまぐさい世の只中で、予知の法が再び覚醒したのだ。
辿り着いたのは、美濃の小豪族の屋敷だった。傘も差さずに濡れるまま歩いてきた夜叉月は、顔に張り付く黒髪を払い、屋敷の重々しい塀を見上げた。
「あなた、濡れてしまいますよ」
背後から届いた澄んだ声に、はっと息を呑む。夜叉月は地面に溜まった水を跳ねさせ、弾かれたように振り返った。
「傘などよいと言っておろう」
「そのようなわけには参りません。大事なお身体なのですから」
背の高い男に傘を差し出し、隣を凛として歩く美しい女性。彼女は屋敷の前で佇む夜叉月に気づいたが、特に意に留める様子もなく、そのまま横を通り過ぎていった。
「まったく……いらないと言っておるのに。私に口答えできるのはお前くらいなものだ、よし乃。美しく気高い、私の妻よ」
「ふふっ。えぇ」
―――妻? あの男は、そう言ったか?
どうなっているんだ。あの男は……何者なんだ。
私は数百年、孤独の中で彼女を探し続けていたというのに……あの男は、いとも簡単に彼女を手に入れ、その隣を歩くというのか?
そのような理不尽が……許されるのか?
何故私ではなく……あの男が……
為す術もなく彼女を失った前回とは異なる絶望が胸を巣食っていく。
彼女に対するこの感情の正体は未だ分からず、言葉にするのは困難だ。だが、自分ではない誰かが彼女の隣にいることを、ただ許せなかった。
彼女が慈しみの眼差しを向ける相手は、もはや自分ではないという事実。
私を忘れた彼女がこの世に生を受ける度、私を置き去りにして新たな幸せを手に入れるのだという無慈悲な現実。
一体、何の意味があるのだろう。彼女が覚えているはずのない約束のために、ただ一人彼女を探し続けることに。再会する度に打ちひしがれ、一人苦しみ続けるこの生に―――
彼女がただ生きていてくれるだけで十分だと、思うべきだろうか。そう思えない自分は何かが間違っているのだろうか。
秋雨に紛れて頬を伝う冷たい雫は……一体、何だ。
かつて清香がそっと拭ってくれた、あの手の温もりを思い出そうと頬に触れてみる。
だが、もう何も……思い出せない―――




