第三十六章 羅刹と化した刀神 【後編】
夜叉月はすぐに動けなかった。
理解が追いつかず、肩越しに彼女の背に突き刺さる刀身を、息を呑んでただ見ていることしかできない。
刃先は清香だけを貫通し、抱き合う夜叉月のことは一切傷つけはしなかった。
夜叉月を抱きしめる彼女の腕が一度きつくなり、次にはぐったりと脱力した。ずるりと下がる彼女の身体を、背に回した腕で咄嗟に支える。夜叉月は震えが止まらない。
目の前で、清香を貫く刃が、止めを刺すようにぎりりと角度を変えた。
「かはっ……」
虚ろな彼女の口元から鮮血がこぼれ出る。
言葉にできぬ焦燥と激怒が、鬼気とともに夜叉月の内から爆発的に込み上げてくる。夜叉月はその瞬間、躊躇なくその鬼気を解き放った!
刺さった刀が瞬時に彼女の身体から消え、再び清香の背後、上空へと吹き飛ばされた。夜叉月がその刀身を見据え、殺意を込めた眼力を飛ばすと、刀は地を割るほどの勢いで地面に叩きつけられ、二度と動きはしなかった。
これほどの鬼気を解放したのに、不思議と羅刹に呑まれる感覚はなかった。
ただ怒りと恐怖に全身を震わせ、歯の隙間から息を漏らすばかりだった。
―――何故だ。何故こんなことが……。
彼女の背を支える手に、生暖かい赤が伝っていく。
真っ赤な大地が、清香の体内から流れ出る血でさらに赤く塗られていった。
世界が静かに壊れていくようで、震えが止まらなかった。
「―――大……丈夫……です」
清香の掠れた声が聞こえ、慌てて彼女を仰向けに抱き直し、その手を強く握る。
「夜叉月……なんて顔を……しているの。あなたらしく……ない……。私は……大丈夫……」
「大丈夫なわけないだろう!」
思わず声を上げた。
彼女が言葉を紡ぐ度、口から鮮血が溢れだす。このまま彼女が消えてしまいそうで、見ていられなかった。
「いいから……もう、話すな……」
困ったような笑みを浮かべ、清香が夜叉月の目元を拭う。その手付きはあまりに弱々しい。
「私は……輪廻の中で……あなたを、待ちます……」
清香の身体から光が溢れだし、その輪郭が薄れていく。腕に抱くその重みが徐々に感じられなくなっていく気がした。
―――失ってはならない!
強い衝動に突き動かされ、彼女の身体を胸の中へきつく搔き抱いた。
「いずれ必ず……あなたを、見つけます……」
「そんなの無理だ!どうやって私を見つけると!それまで私はどうすれば……っ!」
「―――再び出会えた、その時は……今度こそ……あなたと、真尋を……救う……光と、なりましょう。……約束……です」
夜叉月は最早言葉を失い、霞む視界の中で首を横に振る。為す術なく、彼女の存在が光の中に消えゆくのを、絶望とともにただ見つめることしかできなかった。
彼女の表情も薄くなり、向こう側が透けて見える。切ない笑みを残したまま。
―――だめだっ!!
何とか彼女を引き留めようと、必死で声を絞り出す。
「先のことじゃなく……今の話がしたいんだ!私の傍からいなくならないでほしい。このまま傍にいてほしい。そうでなければ……っ!」
言い終わるのを待たずして、清香の姿は光に攫われ、完全に消滅した。
「そうで……なければ……」
羅刹となったこの身で、私はどうやって前を向けばいい。
温もりの消えた腕をだらりと垂らし、項垂れる。何も考えられない。ただ彼女の最後の言葉―――呪いのような約束だけが、頭の中で虚しく反響していた。
しばらくして、力なく立ち上がると、静まり返った童子切を拾い上げ、鞘にしまう。
真尋の怨念は鎮まったのか、今しがたの出来事が嘘のように沈黙している。
「夜叉月。哀れな刀神よ。お前をしばらくの間、現し世に匿ってやる」
背後から聞き覚えのある声が耳に届いた。いつか夜叉月を仏界へと導いた、あの声。夜叉月は振り返る気力すらなかった。
菩薩の身でありながら、羅刹となった私を庇うとは……どこまでも異質な方だ。
だが、もはや夜叉月は自分の身などどうでもよかった。清香との約束も果たせる気など端からありはしなかった。
「必要ありません、普賢様」
「清香は輪廻に身を投じたのだな。胸が痛むか?苦しいか、夜叉月。だがその感情こそが尊いのだ」
「そんな言葉一つで……済ませないでくださいっ」
夜叉月が怒気を含んだ低い声で言った。
「済ませようとしているのではない。忘れるなと言っているのだ」
「……っ」
いつものらりくらりな普賢菩薩が不意に厳格な口調へと変わり、夜叉月は息を呑んだ。
「お前の魂と刀に巻かれたのは、今回の業と真尋の怨念が具現化した輪廻の鎖石。お前が何者かを斬り、業を深める度にそれはお前を苦しめるだろう。そこから溢れる力はお前の魂を源とし、削り取る」
「ならば逃げ延びたところで、この身が消滅するのは時間の問題ですね」
夜叉月は振り返り、自嘲気味な冷たい笑みを向けた。
「でも救いがあるぞ。今お前が感じている、胸の痛みだ」
「またそれか……」
「そして、お前の魂の一部。清香が輪廻に飛び込む直前、彼女は自分の一部をお前に遺した」
「……!」
普賢菩薩は夜叉月の胸元を指さし、口角を引き上げた。
夜叉月が驚いて目を見開くと、胸の辺りからぱっと光が放たれる。光は確かに己の存在を主張すると、再び夜叉月の深部へと溶け込んでいった。
「彼女が輪廻の果てに生まれ変わったとき、その光がお前を彼女の元へ導くだろう。だがそれは決して救済とは限らない。覚悟しておけ」
夜叉月は消えた光を追いかけるように胸の上に手を置いた。
残っている。彼女の欠片が。
「お前一人が悪いわけではなかった。仏界の法則における矛盾が羅刹を生みだし、お前一人に背負わせたのだ。それを彼女は分かっていた。彼女だけがその理不尽に真っ向から立ち向かい、お前を庇った」
最後まで気高く、勇敢だった彼女の姿が脳裏に浮かぶ。
(彼女が背負う必要のなかったことなのに……私のために。私は彼女を守れなかったが、彼女は最後まで私の身を案じていたな)
「あなたも、仏界の尊者でしょう。これ以上私に関わると碌なことになりませんよ」
「私は慈悲の菩薩だからな。仏界は堅物ばかりで疲れてしまうし、お前のようなはみ出し者を応援したくなってしまうのは私の性分だろうな。お前は、純粋であったが、愚かではない。―――このままで終わるなよ、夜叉月」
修羅界の闘争の喧騒に混じって、何かが風を切りながら急激に近づいてくる気配を感じた。
普賢菩薩が表情を変えぬまま、顔の前で印を結ぶ。
「あぁ、奴らが来たな。私はもう行かねば。私まで追放されては、いざという時にお前の前に現れることができなくなるからね」
「なぜ……私を助けるのですか」
「……言っただろう?お前のその『瞳』を気に入っているんだ」
そう言って、慈愛に満ちた笑みを残し、普賢菩薩は姿を消した。
入れ替わるように、新たな追手の護法神が二人、夜叉月の前に降り立った。
先の三人の末路を知っているのだろう。蒼白な顔を引きつらせ、護法神たちは死に物狂いで斬りかかる。
何故かひどく遅く見えたその太刀筋を、夜叉月は呆然と眺めていた。
その時、彼の世界で一番温かく、残酷な呪いの言葉が脳裏を過った。
『―――必ず、あなたを見つけます』
それからは、本能のままだった。
迫りくる相手の焦燥の視線を捉えると、素早く抜き放って振り上げた切っ先が、相手の首元目掛け音を立てて走っていく。
しかし、その刃が相手にたどり着こうとした瞬間、夜叉月の視界は唐突に暗転し、深い闇へと堕ちていく。
しばらくして目を開けると、夜叉月は再び現し世の喧騒の中に佇んでいた。




