第三十六章 羅刹と化した刀神 【中編】
羅刹―――?誰が?
怨霊と化した真尋の気は強大だが、羅刹と呼ぶには未熟であり、そもそも纏うのが鬼気ではない。
言葉の意味が理解できず、夜叉月は突きつけられた切っ先を呆然と見つめることしか出来なかった。
混乱する夜叉月の前に、清香が庇うように躍り出た。
「待ってください! この方が何をしたと? 法に従い、ただ忠実に遂行しただけのこと!私がこの目で見ておりました!偽りはございません!」
絞り出すような清香の叫びは、苦痛に打ち震えていた。その言葉は夜叉月を養護すると同時に、真尋の存在を悪であることを肯定する言葉でもあった。
「『何をしたか』が問題なのではない。『何者か』が問題なのです。怨霊に取り憑かれ、業に支配され『羅刹』と化した……」
その護法神は、夜叉月へ哀れむような視線を向けた。
私が……羅刹……?どういうことだ……。
「あなたは―――法則に反する存在となったのです」
私は、確かに真尋を斬った。
それは悲劇に違いなかったが、己の使命を忠実に果たした結果だったはずだ。なのに―――
急に足元の世界が崩れ去っていくような感覚だった。なぜこうなったかは分からない。
唯一理解できたのは―――自分がすでに、仏界から切り捨てられたのだという事実。
前に立つ護法善神が刀を握り直し、「ちゃきっ……」と冷たい音を立てた。
その音に反応するように、夜叉月と童子切に巻き付いた鎖が暴れ出す。
『嫌だ!怖い!また僕は斬られてしまう!』
真尋の叫びが脳内に響いた直後、彼の魂が童子切を突き動かし、鞘から刀身が勝手に滑り出た!
「やめろ……っ!」
咄嗟に押さえ込もうと柄を握りしめたが、今度は夜叉月自身の内から強大な力がうねりを上げ、身体を突き破らんばかりに暴走を始める。それはとてもじゃないが制御しきれるものではない!
その瞬間―――疑いは確信へと変わる。
己の内から止めどなくわき上がる力……それは紛れもない、羅刹の気であった。
夜叉月の意思を無視し、力任せに刀が振り下ろされた!
刃が地を割砕し、巻き起こった爆風が左右に広がる。最初の風圧で、一人が山肌に叩きつけられ、その後も押し寄せる衝撃波が刃の如く彼らの肌を深く引き裂いた。
向かってきた相手の太刀を刀身で受け止め、骨を砕くほどの蹴りを叩き込む。凄まじい勢いで飛ばされた護法神は、地に三回ほど叩きつけられながら、最後は奥の巨木をなぎ倒して動かなくなった。
もうやめてくれ……!
私は戦いたくなどない。羅刹として生きていたくなどない。
真尋を手に掛け、羅刹となり、仏界に見放され……もはやすべてを失った。こんな命、今すぐ差し出したって構わないというのに―――
真尋の意思をもって動き回る童子切も、それを助けるかのように刀身を滑らせてしまう己の腕も、何一つ思い通りにはならない。
精神と肉体が切り離されてしまったような感覚だ。
三人がかりでかかってきていた彼らは、全く相手にもならなかった。気づけばすでに二人は純白の衣が血に塗れ、虫の息で横たわっている。
だが相手を気遣う余裕などない。このままでは己の意思まで羅刹に呑まれてしまう―――そうなる前に、誰か私を殺してくれ!
その刹那、魚の尾ひれのような滑らかな薄絹が、目の前をふわりと舞った。土砂降りの惨劇の最中に一切そぐわぬ美しい羽衣が、夜叉月を優しく包み込んでいく。
雨粒一つすら届かぬその中では、薄暗かったはずの視界が春の日差しのような暖かい光で覆われた。どくどくと脈打ち荒ぶっていた鬼気が、静かに鎮められていく。
背後から清らかな声が届いた。
「夜叉月、あなたをこのまま遠くへ飛ばします。すぐに追いかけますから……ご武運を」
「清香―――」
最後に背をとんと叩かれ、振り返るとそこに清香の姿はなかった。
光が弾け飛んだ先―――そこに広がっていたのは、空も大地も一面真っ赤に染まる黄昏の空間。風が吹く度にどこか遠くで交わされる闘争の残響と、怨嗟の叫びが不協和音となって流れてくる。
ここは……修羅界との境界か。
己を見れば、返り血に塗れ―――なんとこの場に相応しい姿だろうか。
赤一色の修羅の境界に佇む己の姿は、羅刹そのものなのだろう。
もう仏界には二度と戻れない。あのまま現し世に留まれば、被害を広げるばかり。だから清香はここを選んだのだな。
ただ羅刹と化した身では、ここの空気は血が滾って仕方がない。自身を制御できぬ夜叉月にとっては地獄のような場所だった。
興奮し始める魂を抑え込もうと神気を集めるが、いくら試みてもいっこうに漲るそれを感じることができない。
(護法善神としての神気は……やはり失われたか)
仕方なく刀神として残る神気をかき集めるが、羅刹の鬼気は凄まじく、それだけでは到底太刀打ちなど出来なかった。培ってきた霊力までも注ぎ込んで対抗すれば、あっという間に膨大な霊力を消費し、夜叉月はすぐに視界が眩んでいく。
その時―――頭上から眩い光が降り注いだ。光の粒子が雪のように舞い散る。本来この凄惨な空間に存在するはずのない、優雅で妖艶な美しさ。
夜叉月の黒曜石の瞳が清香を捉え、僅かに揺れた。彼女の姿を見れば、縋りつきたいような、泣き出したいような、理解できない感情が溢れ出ていく。
本当に……何もかも制御できない。己の感情さえも―――
「―――大丈夫ですから」
そう言って、清香が夜叉月を抱きしめた。
夜叉月は目を見開き、息を呑んだ。
清香の背に手を回し、しがみつくように力を込める。彼女の美しい衣が自分の血で汚れていく。それでも、離すことなどできなかった。
縋ったのだ―――
生まれてこの方、何かに縋ったことなど、一度としてなかったのに。
彼女は、私を恨む者でも、利用しようとする者でも、裁きに来た者でもない。
「清香……私は……私は……っ」
「はい。大丈夫です」
「清香……!」
「はい……私は、ここにおります」
清香から発する光が弾けて広がった。温かな波動が夜叉月の体内に流れ込み、荒れ狂う鬼気を鎮めていく。
その心地良さに身を委ね、荒い息を整えながら目を閉じる。
じんわりと浸透してきた清浄な魂の光が、夜叉月の深部に触れた。その瞬間―――
『怖い!!! 怖い!!! 近づくなあぁぁぁ―――!!!!』
天女の光に当てられた真尋が、突如発狂する!夜叉月の脳内に響く真尋の声は、恐怖に錯乱し、我を忘れて喚き散らしていた。
天女の愛は、怨念たちにとって自らを溶解させる最大の恐怖―――究極の光だったのだ。
童子切から黒い渦が、光を蹴散らすように巻き上がり、刀を突き動かす。
―――全ては一瞬の出来事だった。
鞘から滑り出た童子切が、瞬きの内に清香の背後に移動する。切っ先がまっすぐ清香へと向くと、そのまま猛烈な速度で突き進み、背からその胸を貫いた!




