第三十六章 羅刹と化した刀神 【前編】
辺りを狂暴に渦巻いていた靄が弾けるように霧散し、視界が明らかになる。
今、何が起きた―――?
私は何を見た―――?
とても現実とは思えない。
あの暗黒の靄は、確かに強力な怨霊が生まれる気配を放っていた。
だが、そこにいたのは―――琥珀色の―――
……真尋?
「いやあぁぁぁぁぁぁぁっ―――!!!」
清香の絶叫が夜叉月の意識を無理矢理引き戻す。清香は立ち上がれずに、泥に塗れてなんとか這いずりながら、横たわった小さな身体へと縋り付く。胴体の先に転がった頭を引き寄せ掻き抱くと、蹲って胸を抉るような嗚咽を漏らしていた。
一度散ったはずの靄が、周辺一帯から再び姿を現し収縮を始める。撒き散らされた血とともに、暗黒の筋となって、分かたれた真尋の傷口へ猛烈な勢いで吸い込まれていく。
すると、清香の手にしていた頭が闇を吸収しながら浮き上がり、立ち上がった胴体へと引き寄せられ―――傷口が繋がった。
刹那、その瞳がカッと開く。そこの宿る色はもはや琥珀色などではなく、血の色を映したような獰猛な赤だった。
「きゃっ……!」
清香は小さく悲鳴をあげ、口元を固く押さえて退いた。
「ぎゃぁぁぁぁぁぁぁ―――っ!」
身体を取り戻した真尋は、たちまち激しく叫び始めた。首元を押さえて全身を痙攣させ、完全に理性を失ってのた打ち回る。
その惨状を目の前にして、夜叉月はようやく真尋をこの手にかけた事実を認識した。
「真尋!」
すぐさまのた打つ真尋の傍に膝をつき、彼の肩に手を置いた。その瞬間に悟った。
―――真尋はもはや人ではない。
その身に満ちる気は、完全に怨霊のそれへと変貌していた。
名を呼ばれた真尋は、ぴたりと暴れるのをやめて、恐る恐る振り返る。
「夜叉月様が……僕を、斬った……」
消え入るような擦れた声だった。
絶望に染まった眼差しが夜叉月を捉え、地獄の底を映すような赤い瞳が悲痛に震える。だが、その瞳の奥底はやはりどこまでも純粋で透明な真尋自身の心が遺されていた―――。
―――それが、夜叉月の心を狂おしく揺さぶった!
呼吸すら忘れるほどの眼差しに射抜かれ、夜叉月は目を見開いたまま身動きもできない。
目の前に存在しているというのに、真尋が果てしなく遠い深淵へ去ってしまったように思えた。
「夜叉月様が……僕を、斬った」
今度ははっきりと、真尋の声が夜叉月に逃れられぬ罪を突きつける。
思考は途切れ、激しく打つ鼓動の鳴音だけが脳内を支配していた。
歪められた真尋の瞳から、大粒の涙が溢れ出す。それが頬を伝い、地を濡らすとき、天からぽつぽつと雨粒が落ち始めた。それはまるで真尋の悲嘆に世界が共鳴するようで……雨は瞬く間に凄まじい土砂降りへと変わっていく。
「夜叉月様が……僕を斬ったぁぁぁっ―――!」
地を吐くような叫びとともに立ち上がり、真尋は数歩下がった。肩に置かれていた夜叉月の手が力なく落ちる。
真尋の胸元で闇の渦が蠢き出す。それは、暗黒の刃となって一直線に解き放たれ、夜叉月の胸に深く突き刺さった。
鋭い衝撃に焼けるような熱が喉まで駆け上がり、夜叉月は声にならない掠れた吐息が漏れる。
避けることなど、いくらでもできたはずだった。
だが……夜叉月はその痛みを、甘んじて受け入れた。
暗黒の刃は瞬時に重たい鎖へと姿を変える。ザリザリと金属が擦れる甲高い音が響き、長鎖が真尋の胸から次々と吐き出されていく。それは夜叉月の魂と童子切へ幾重にも巻き付き、一気に締め上げた!
それはまるで鋭いとげを持った蔓のように、激痛みを与えながら夜叉月を支配していく。心臓から送り出される血液は、煮え滾るほどに熱く、己のものとは思えないそれが全身を駆け巡った。
「ぐっ……!」
―――ばしゃんっ!
雨が激しく地を打つ中、夜叉月は耐えきれずに手を地について蹲った。
雨がどれほど冷たく身を打とうとも、それは体内を無慈悲に巡る灼熱を少しも冷ましはしなかった。
苦痛を和らげようと、胸元から体内にめり込んでいく鎖を掴んで抗うが、その強さは尋常ではなく到底止めることはできなかった。夜叉月の掌の皮が裂けて熱を生み、血が雨水に混じって滴り落ちる。
鎖はまるで生き物のようにドクドクと脈動し、その度に全身の神経が千切れるような苦痛に襲われる。食いしばった歯の隙間から、何とか肩で荒い息を吐き出した。
……だが、何かがおかしい。
途切れそうな意識の中で、己の身体のさらなる異変を確かに感じていた。叫び出しそうな苦痛とは裏腹に、今までとは異なる力が漲っていく―――
ようやく鎖の動きが止まったときには、真尋の身体は光の粒子となって透けていた。
「……真尋」
「これで夜叉月様と僕は、永遠に一緒だ。もう他の誰にも、奪われはしない―――」
そう言って儚く微笑むと、黒い霧となった真尋の魂は、静かに童子切の刀身へと吸い込まれていった。夜叉月を苦しめていた激痛と灼熱も和らいでいく。
胸を貫く鎖は、真尋とともに姿を消した。しかし、童子切に巻き付いた鎖は実体を失ったまま残され、重々しい罪の質量となってその存在を主張していた。
それは、あまりに重くて……もはや支えきれずに、ガシャンと甲高い音を立てて刀が手から滑り落ちる。
力なく落ちた腕を、誰かが掬い上げた。
「―――夜叉月!夜叉月、聞こえていらっしゃいますか!?」
清香が座り込む夜叉月の腕を自分の肩にかけ、必死に立ち上がらせようとしている。雨に濡れて乱れた前髪の隙間から、切迫した瞳がこちらを見つめていた。
清香……何を……
声が出ない。
「立てますか?! 立てるのなら、今すぐに立ってください! 追手が向かっています!」
―――追手?真尋を狙って?
「早くしてください!!もう時間がっ―――」
「―――そこの天女。見苦しい悪あがきはいい。下がれ」
清香の動きが凍りつく。
彼女の肩越しに見える人影―――そこには神々しい気を纏う三人の男たちが立っていた。
夜叉月はあの男たちを蓮華蔵で見たことがあった。現れたのは、護法善神だ。
彼らは静かに刀を抜き、夜叉月たちを包囲するように散った。同時に切っ先を上げ、真っ直ぐに夜叉月へと向けられる。
「これより、大明様の命により―――『羅刹』と成り果てたあなたを断罪する」




