第三十五章 壊された真尋 【後編】
「清香、少しいいか」
「……はい?」
夜叉月から清香へ声をかけるこなど滅多に無いので、彼女は呆気にとられた顔で返事をした。
山中へ深く入り、周囲に真尋の気配が無いことを確認する。夜叉月は深く息を吐き出すと、静かに切り出した。
「頼みを聞いてほしい」
「まぁ、珍しいですね。こんな女に頼み事だなんて……今晩は嵐でもくるのでしょうか」
「茶化すな」
清香はふっと笑ったが、その表情には心なしか疲労が滲んでいた。しかし、いかなるときも明るく取り繕い、真尋の前へ立っているのだから見上げた女だ。
「私は今晩からしばらく、務めで家をあける。各地を回らねばならぬから、すぐには戻って来られないだろう」
清香は意外そうに目を丸くし、小首を傾げた。
「以前の任務も、数日のうちに終えてしまわれたあなたがですか?」
「……」
「あの時は、溜まりに溜まった務めに、周りの仏界の面々は揃って哀れみの目を向けてらしたのに……数日で戻られたあなたの噂を聞き、皆様こぞって顔を蒼白にして、慄いていらっしゃいましたよ」
可笑しそうにクスクス笑う清香を見ても、今は呆れた感情すら湧いてこなかった。
「真尋は……私といるのが辛いと言った」
夜叉月がぽつりとそう漏らすと、清香は笑うのをぴたりと止めて、真剣な面持ちで夜叉月を見つめた。
「夜叉月。あなたは、あの羅刹が言ったことを気にしておいでですか」
「……聞いていたのか」
「えぇ。真尋がどんな言葉を口にしようと、あの羅刹がどれだけあの子の心を理解していようと―――あの子が心から求めているのは、あなただけです」
「そんなこと……なぜ分かる」
「疑いようもありません。私には分かります。逆にどうしてあなただけが分かっていらっしゃらないのか不思議なくらいです」
きっぱりと言い切られて、夜叉月は言葉を失った。
だがいずれにせよ、夜叉月には波立ってしまった心を鎮める時間が必要だった。これほどの憤りや戸惑いを、経験したことなど無かった。
数日経てどなお、己の内に渦巻くこの感情を持て余している。
夜叉月はこれまでも、刀を振るうときは常に平常心でいられた。それは刀神としての本能であり、護法善神としての宿命でもあるのだろう。何にせよ、心を凪ぐには、務めに身を投じるしかなかった。
夜叉月はそうして、再び法の執行へ向かうことを決めたのだ。
「とにかく……真尋の傍に、いてやってくれ」
清香は探るような目線を向けた後、小さく溜息をついて承諾した。
「……仕方ありませんね。あの子を一人にはできませんから。ですが、約束してください。できる限り早く帰ってくると」
「……あぁ」
◇
夜叉月は圧倒的な神気を解き放ち、次々と任務を片付けていった。息つく間もなく次の地へ跳び、一晩で数え切れぬ怨霊を滅して、やはり今回も数日のうちに務めを終えた。
気を整えるためだったはずが、真尋から離れれば離れるほど焦燥感は増していく。清香に託してきたとはいえ、己の不在を突いて、あの羅刹が真尋に近付くのではないかと気が気でなかった。
務めを終え、その足で帰路につこうとした矢先、珍しく仏界からの召喚を受けた。
すべての任務を終えたばかりだというのに何事だろうか。
「来たか、夜叉月」
蓮華蔵に足を踏み入れると、待ち構えていた不動明王が重々しく出迎えた。
周りの仏たちはというと、やはり物陰から恐れ慄くような視線を向けてくる。
明王は、回廊の中央に据えられた透明な水晶の盤面を指差した。
「あれを見ろ。あれは『予知の法』と言ってな。我々に未来を見せるもの」
夜叉月がその盤面を覗き込むと、暗く不穏な靄が蠢いている。その中で時折見え隠れする山の陰影は随分と見覚えのあるものだった。
夜叉月は黒曜石の瞳を鋭く細めていく。
「これがどこか、分かるな」
「はい。大江山ですね」
「あぁ。羅刹の一派の残党か……あるいは酒呑童子そのものか。山の麓で、業の塊が渦をなしている。夜叉月―――心して向かえ」
夜叉月は即座に仏界から飛び降り、あの盤面が示した大江山の麓へ真っ直ぐに突き進んだ!
大江山が視界に迫ると、大きな黒い靄が竜巻のように一点を旋回している。夜叉月はその禍々しい気配に眉根を寄せた。
しかもよく見れば、渦の先に清香がいた!彼女は木に背を預け、顔面を蒼白に染めて座り込んでいる。黒の爆風が、今にも彼女を呑み込もうと迫っていた。
あんなところで何をしているんだ、あの女は!
咄嗟に童子切の柄を握った。その刹那、身体の奥底から狂おしいほどの神気が溢れ出し、夜叉月を内側から支配していく。
―――法に忠実であれ。
―――感情に支配されるな。
―――法に則り、業を断て。
夜叉月の心がすっと凪いだ。勢いを殺さぬまま、黒い渦に突っ込んでいく。凄まじい逆風を切り裂き、渦の中央に佇む影を視界に捉えた。夜叉月は童子切りを一気に引き抜くと、躊躇いなく一閃を振り下ろす!
「いけません!夜叉月!だめっ―――!!!」
黒い靄の外で、悲痛な清香の叫びが響いた気がした。
刃が相手の肌に触れる直前―――振り返った人影の琥珀色の瞳が夜叉月を映す。
夜叉月は目を見開いた―――
だが、すべては遅すぎた。
ザンッ―――
容赦ない神気の斬撃は、目の前の童子の首と胴体を真っ二つに断ち切った。




