第三十五章 壊された真尋 【前編】
「あなたは誰なんですか?お願いです、教えてください」
数日後、夜叉月は真尋を探して外へ出た。いつものように裏庭だろうと思って様子を見に来てみれば、性懲りもなくあの羅刹が、白昼堂々、再び真尋と交信していた。
今日の真尋は気を失うこともなく、彼にしか聞こえることのない声と対話していたのだ。
「真尋!」
「夜叉月様!」
真尋が驚いたように振り返る。
夜叉月が大股で近づいて、真尋の額に手を伸ばした。すると真尋がその手をすり抜けるように避けた!夜叉月は驚きに目を見開く。
「どういうことだ、真尋!」
「夜叉月様、お願いです! 僕は知りたいんです。真実を!」
「そいつがどのような存在か、分かっているのか!」
「―――なら!代わりにあなたが、すべてを教えてくださいますか?!」
「……っ」
「夜叉月様……もう本当に、僕は大丈夫ですから。放っておいてください。これ以上、あなたの側にいるのが……辛いんです」
真尋が悲痛に顔を歪めた。
(私といることが、辛い―――?)
一体どういうことだ。あの羅刹は真尋に何を吹き込んだ。
きっと真尋を支配するための、嘘に塗られた作り話に決まっている。
「真尋、お前は一体何を聞いたんだ。私が恐ろしい存在だとでも言われたか」
「―――そんなこと言われていません!言われていたとしても、僕がそんな戯言を信じるとでも思っているんですか!」
「ではなぜ辛いなどと―――」
「言いたく……ありませんっ」
その刹那、夜叉月は凄まじい神気を放ち、この花畑の空間ごと真尋を囲いこんだ。巻き起こった風が花々をざわめかせ、色とりどりの花弁が空間を裂くように、ぶわっと舞い上がる!
真尋の内に潜んでいたあの羅刹の声が、神気で覆った空間全体に響き渡った。
『ふっ……感情に疎い父親を持つと、子は苦労するものだぞ、刀神』
羅刹は真尋ではなく、明確にこちらへと語りかけてきた。
夜叉月は相手が眼前にいるかのように、空を睨みつけて告げる。
「真尋に何を言った。一体どんな偽りを」
『お前は俺をなんだと思っている。偽りなど……そんな姑息な手は使わない。俺を疑う前に、一番近くにいるお前自身の胸に聞け。俺には、真尋の想いが手に取るように解かるがな』
「偽りではない?羅刹の言う事を、信じろと?」
『ならお前は、人間であれば信じられるのか。あの村人たちのような?』
言葉を交わすたび、夜叉月の握りしめた拳に力がこもる。夜叉月は静かな口調で、内に渦巻く焦りを押し隠した。
耐えろ。相手の煽りに呑まれるな。真尋がすべてを聞いている。
「真尋。お前に近づいてきたこの声は、羅刹―――酒呑童子だ。お前が母の話を聞いたのなら、彼女がなぜ命を落としたか知っているだろう」
「……酒呑、童子?」
真尋の瞳に動揺の色が浮かび、揺れた。
『真尋の母が、俺のせいで命を投げ売ったとでも言いたいのだな。見方によってはそれも正しいのだろう。だがそれは、俺が望んでそうさせたことではない。恐怖に苛まれた村人が、なんとか恐れから逃れようと、自分以外の誰かを犠牲にすることでその欲を満たしただけのこと』
「だから何だ。結局お前がいたからだ。残党たちが村を襲ったのはお前のためだろう」
抑えきれず、夜叉月の声は低く這うようなものに変わっていく。
『真実に目を向けろ。すべてを知っていながら……それを歪めて何になる。お前が真尋を引き止める手段は、そんな言葉遊びか?』
「や、やめてください!」
そこへ真尋の叫びが割って入った。真尋は青ざめた顔で両耳を強く塞ぎ、頭を抱えて振り乱している。
「夜叉月様!酒呑童子様!お願いです!それ以上は……聞きたくありません!」
『真尋、今日は仕舞いだ。―――眠れ』
酒呑童子がそう告げると、真尋は糸が切れたように膝から崩れ落ちた。
夜叉月はゆっくり近づいて、頼りないその身体をそっと腕の中に抱き上げる。
「真尋は限界だ。二度と近付くな」
『そうか。お前はいつも俺が一方的に近づいていると思っているのだな。それは違う。確かにきっかけはこちらだったが。……真尋が俺を呼ぶのだ。すべては真尋が選んだこと』
「お前がそう仕向けたんだろう。狡猾な羅刹め。でなければ……真尋がお前に近づくはずが―――」
『刀神とは、誠に頭が固いのだな。だがそれではいつまで経っても真尋の心にはたどり着けぬぞ』
苛立ちはあれど、その言葉は夜叉月を黙らせるには十分だった。
真尋の心に触れるなど、考えたこともない。近づく術など、知り得るはずもない。ただ傍にいるだけでは、たどり着けぬものなのか?
真尋、お前は一体、何を考えている―――?
『刀神よ、勘違いするな。俺はお前を恨んでいないし、真尋を求めるのは復讐のためでもない。存外、俺はお前のことも気に入っているのだ、夜叉月』
「―――なら、教えてくれないか。真尋が今何を思って苦しんでいるのか」
『ふっ……急にしおらしいな。だが私は本気で真尋が欲しいのだ。悪いが……敵に塩を送る真似は出来ないな』
夜叉月には、この羅刹の思考がさっぱり分からない。敵意や殺意も感じはしないし、真尋の存在を抜きにすれば、この羅刹の口調は、駄々をこねる弟を宥める兄のようでもあった。だからと言って絆されるわけではないが。
夜叉月は力尽きて眠る真尋の顔を見つめた。その表情には暗い影が落とされている。見るほどに、己の無力さを思い知らされるようだ。
「ならば……真尋を理解した気でいるお前が何とかしてやれ。真尋は限界なのだ。このままでは……壊れてしまう」
『それでもいいさ』
「―――何?」
夜叉月の声が再び怒気を孕んで低く響く。
どこまでも余裕を崩さぬ羅刹は、冷徹さなど微塵も感じさせない口調で、夜叉月には到底理解し得ない言葉を放った。
『壊れたっていい。そうなれば……壊れた真尋ごと―――愛してやる』
羅刹はそれだけを遺し、一方的に交信を遮断した。
夜叉月の胸中で警鐘の早鐘が鳴り響いていた。
だめだ。このままでは……いずれ真尋は、酒呑童子の手に堕ちる。
漠然とした絶望感に打ちひしがれ、夜叉月はその場に立ち尽くしたまま、しばらく動くことができなかった。




