第三十四章 封印の底から 【後編】
家の中に真尋はいなかった。その足で裏庭へと向かう。
庭には一面の花々が今日も爛漫と咲き誇っていた。しかし花弁にはどこか生気が欠けているように見えた。これを作った本人があの調子では仕方のないことではあるが。
花畑の中央、小さな墓石の前で真尋は膝を抱えて蹲っていた。
夜叉月はその背に近づいて傍らにしゃがみ込み、墓石へ手を伸ばした。アケボノツツジの大きな花を一つ、その石に飾った。
顔を上げた真尋が、薄桃色の花をじっと見つめた。そこにかつての明るさはない。
「それ……夜叉月様が?」
「……どうだ?お前の母親に似合う花だろ」
「……ありがとう……ございます」
その後しばらく、真尋は口を閉ざした。風が彼の髪を心配そうに揺らす。髪の間から見える切なげな琥珀色の瞳は、花を見つめているようで、どこか遠くに気をやっているようでもあった。
やがて真尋が口を開く。
「……夜叉月様。僕はもう、毒のある山菜を見分けられるようになりました。重たい薪も一人で運べるくらい背丈も伸びて、力もつきました」
「……あぁ。そうだな」
ふと、かつて毒山菜で汁を作って慌てていた幼い姿が思い浮かび、夜叉月の口元が微かに緩んだ。
「随分と……あなたによくしていただきました。僕には、もう十分すぎるくらいに」
「……」
「母は、僕のために命を捨てました。夜叉月様も、それを知っていたんですよね。だからあなたは僕の手を取ってくれた」
「―――!」
夜叉月は途端に顔を険しくさせた。
なんだ……まるで何もかもを知っているような―――
「安心してください。だからと言って、今更村の人達を恨んだりしません」
「真尋。お前―――」
どこでそれを―――と過った疑問は言葉にせずに呑み込んだ。そんなもの「あの方」の他にいない。
そう思い至った途端、内側から湧いてくる激情―――これは、怒りか。
「僕には母の代わりに、あなたがずっとついていてくれましたから。あなたは……僕なんかのために縛っておいていい人ではないのに」
「……私は、私のしたいようにしているだけだ」
「夜叉月様。僕はもう、一人でも大丈夫です。だから―――」
その刹那―――真尋の琥珀色の瞳から光が消え、その身体がぐらりと崩れた。
夜叉月は即座にその背を支える。真尋の瞳は虚ろに開かれているだけで、そこには何も映ってはいない。
肌を刺す僅かな気配を察知し、夜叉月は二本の指を真尋の額に当てた。触れた指先を通じて、脳裏に直接声が流れ込んでくる。
『―――ついに見つかってしまったか』
相手もこちらに感づいたようで、愉快そうに声を踊らせた。まるで見つけ出される瞬間を心待ちにしていたかのように。
夜叉月は指先に神気を込めて、こちらの声を送る。
『真尋から出ていけ』
『おいおい、何も知らないくせに勝手を言うなよ。真尋は俺を慕っているんだ。俺だって真尋を気に入っている。まさに相思相愛というやつだな、ははっ』
その言葉が夜叉月の神経を逆撫でした。
お前に何が分かる。「何も知らない」のはお前の方だ―――
上機嫌に笑う声の主―――羅刹、酒呑童子へ湧き上がる怒りを押し込め、夜叉月は静かに言葉を返す。
『何が可笑しい』
『戯言に聞こえたか?俺は至って真剣さ。俺は真尋に同情しているんだ』
『同情だと?笑わせるな。お前はただ、真尋を利用してそこから出たいだけだろう』
酒呑童子がふっと鼻で笑う。
この羅刹は、真尋が生まれたときから虎視眈々とその機を窺っていた。彼を封じ込めた陽の気を、同じ血筋の陰の気で打ち消そうと企んでいる。そのために何度も鬼の残党を放っては真尋に近づいていた。
真尋の気は陽であったが、彼ほど純粋な魂を持った童子は一瞬で強大な陰に塗り替わることがあるのだ。
『利用などと……浅はかだな。私はあの血を愛している。だからこそ手に入れたい』
『愛だと?狂気だな。お前のような羅刹に愛などと……笑わせる』
『ふっ……お前には分かるまい』
酒呑童子の声はどこまでも穏やかで余裕に満ちていた。夜叉月を不必要に挑発してくることもない。だが夜叉月は自分の生き様を見下されているような気がしてならなかった。
『浅ましい人間たちに欺かれ、心を抉られた真尋に俺は深く共感する。あいつらは、俺たちが大切に思うものをいとも容易く踏みにじり、壊す。俺は真尋に手を差し伸べたまで』
『手を……差し伸べただと?』
日に日に笑顔を失っていった真尋が脳裏をよぎり、夜叉月のこめかみに青筋が立つ。
『ふざけるのも大概に……』
『お前たちでさえ、そんな真尋へ嘘を重ねていった。……だが俺だけは違う。俺だけが誠実に真実を伝え、その上で真尋のすべてを受け止めてやれる。どちらが正解かなんてお前に分かるのか?選ぶのは真尋だ』
「いいから今すぐ出ていけ!」
ついに耐えきれず、夜叉月は咆哮とともに指先の光を爆発させた。青銀の神気が閃光となって弾け、真尋の中に潜む羅刹の気配を力任せに弾き出す。
おそらく、以前の封印の綻びから僅かな鬼気を抜け出させておいたのだろう。どんな術かは知らないが、事あるごとに真尋の中へと入り込み、もう何度もこのように接触していたに違いない。
それは毒のように徐々に真尋の心を蝕んだ。疑惑の芽を植え付け、一度芽生えた不信が、奥深くに根ざしてゆくように。
しかし、夜叉月には沈みゆく彼の心を引き上げる術が分からない。
知っているのは、ただ法に従って刀を振り、業を断つことのみ。
―――夜叉月は初めて己の「無力」に打ちのめされた。
羅刹の気が抜けた真尋は、今は瞳を閉じて眠っている。目の前の小さな身体を支えながら、夜叉月は難攻不落に見える壁を前にし、ただ途方に暮れるしかなかった。




