第三十四章 封印の底から 【前編】
夜叉月の胸を騒がせた懸念とは裏腹に、あの日以来、封印の結界に不穏な動きはなく、それからの日常は穏やかに過ぎていった。
唯一の変化といえば、真尋の夜泣きだった。魘される夜が増え、夢現で痛々しい悲鳴を上げることもあった。
それでも朝を迎えると、真尋はいつも通り健気に微笑んでみせた。夢の内容を語ろうとしない真尋に、夜叉月もあえて問い質すことはしなかった。
だが清香は違った。朝になれば何事もなかったかのように笑ってみせる真尋を、切なげな眼差しで見つめていた。
「夜叉月。やはり、心配ではありませんか?」
「真尋が何も言わないのだ。案じても仕方がない」
「……そうでしょうか」
日が経つにつれ、真尋の様子は一層おかしくなっていった。いつしか、その幼い顔から無邪気な笑顔は殆ど見られなくなっていた。
そんなある日、真尋の方から唐突に夢の話を切り出した。
「なんだか最近、よく夢を見るんです。夢……なのかな?誰だか分からないけれど、僕に話しかけてくるんです」
夜叉月はぴたりと動きを止める。ようやく真尋がその話をしたかと思えば、その夢の中に「何者か」が介入してきているという。聞き過ごせる話ではなかった。単なる夢の可能性もあるが、最近の真尋の様子を鑑みれば、とてもそうとは思えなかった。
「ねぇ、清香さん。清香さんは……あの村の人ではありませんよね」
清香が肩を跳ね上げた。夜叉月と清香は揃って真尋を振り返る。それはあまりに突然な問いかけだった。
「あら?どうしてそのように思ったの?」
清香は平然を装って聞き返すが、嘘が苦手な彼女の眼差しは分かりやすく泳いでいた。
真尋はそんな清香を見てくすりと力無く笑うと、静かに答えた。
「もともと……あの村で見かけない顔だってことは分かっていました。毎日通っていたんですよ?気付かない方がおかしいでしょう?話し方も、やけに上品ですし」
「では、なぜ今になって……」
「聞いたんです。あなたが天女様だって」
「……っ」
「あぁ、本当にそうだったんですね。『あの方』はやっぱり僕に真実を教えてくれる」
(あの方……?)
「あの方は……僕に寄り添ってくれるんです」
清香は驚愕のあまり言葉を失っていた。
―――あの方。
そう聞いて、夜叉月の脳裏に思い浮かぶのはただ一人。水底深く沈められている……あの羅刹。
瞳を細め真尋の気配を探るが、術がかけられている痕跡はない。
だが何故だ。胸の奥が波立つ。先日結界の綻びを見つけたときと同じ、何か―――
もっとよく探れ。何一つ見落とすな!
「―――真尋。誰だ。お前に近づいたのは」
低い声で真尋の名を呼び、全てを見透かすように眼差しで真尋を射貫いた。
「誰も。ただの夢です」
真尋は琥珀色の瞳を細め、穏やかな顔で答える。
夜叉月は微かに眉根を寄せた。
「でも……そうか、天女様か……。以前からお二人はお知り合いだったのですか?」
「そ、そうね。友人かしら?」
そう言って清香がこちらを見たが、夜叉月は頭の中であらゆる可能性を思案していてそれどころではなかった。
誰かの手が真尋に忍び寄っているのは確か。だが直に接触しているようではない。何が狙いだ。―――いや、目的など分かりきっている。あの羅刹は喉から手が出るほどに真尋を欲しがっているではないか。
「ゆう……じん……?流石、夜叉月様です。とても高貴なご友人がいらっしゃるんですね」
夜叉月は真尋の笑みの奥で、その瞳が一瞬だけ揺らいだのを感じた。しかし頭の中では、刻一刻と迫る羅刹の影を弾き出すことばかりに意識を奪われ、深く受け止めることなく、その一瞬を見過ごしたのだ。
このとき、あの琥珀色の奥に隠された切なる訴えほど重要なことなど、ありはしなかったというのに―――
「真尋?心配しなくても、彼の心の一番近くにいるのは、あなたですよ」
「やめてください。僕なんて、ただの取るに足らない子どもです。自分の立場くらい、弁えているつもりです。最初から教えてくださればよかったのに。……僕、失礼じゃありませんでしたか?」
柔らかに笑む真尋を見て、清香は切なく瞳を揺らす。
二人のやり取りをどこか遠くの出来事のように感じながら、夜叉月の意識はただあの羅刹と、不入の池で見たあの鬼へ向けられていた。
それ以降、真尋は清香に対して過剰なまでに礼を払うようになった。
その態度はあまりによそよそしく、清香は寂しげに真尋の後ろ姿を見つめることが増えていった。
ある日、大江山を見回った後の帰り道。夜叉月は、とぼとぼと山道を下る清香の背中に遭遇した。
気づかぬふりで通り過ぎてももよかったが、その腕に抱えられた山のような山菜が目に入り、夜叉月は思わず声をかけた。
「清香。今日はまた一段とすごい量じゃないか?」
「あっ……夜叉月」
清香お手製の大きな竹籠に山菜が積まれているが、今日の量は尋常じゃない。いや、このところこんな日が度々あった。載り切らなかった山菜や木の実が、清香の歩んだ道を示すかのように点々と落ちている。
大方、手元も見ずに思いつめた顔で集めていたのだろう。今も木の実が一つ落ちて、コロコロと夜叉月の足元へ転がってきた。
清香は少しの間ぼーっとこちらを見つめていたが、やがて重たい籠を置いて、その場に腰を下ろした。そこから無言のまま、じっとこちらを見上げてくる。
(……お前も座れ、と言いたげな目だな)
やはり知らん顔で去るべきだったと、夜叉月は半ば諦めたように大きく息を吐き出し、清香の隣に腰を下ろした。
「私は……真尋の前に現れない方がよかったのでしょうか」
「……」
「真尋とうまくやっていけると思っていたのです。けれど……自分の身を偽って近づき……結局、あの子の心を傷つけてしまったのでしょうか」
「……」
「何か言ったらどうなのです」
「お前は、私がそんなに気の利く男だと思っていたのか」
「……いいえ。まったく」
今度は清香が小さくため息をついた。失礼な女だ。
「もういいです。言葉は求めません」
そう言って清香が夜叉月の肩に自分の頭を乗せた。
「……っ?!おい……」
「良いではありませんか、肩をお借りするくらい。減るものではありません。私は話す相手を間違えているのかもしれませんが、あの子のことを相談できるのは、あなたしかおりません」
天女とは、こうも厚かましいものなのか。
うんざりして肩に預けられた頭を睨みつけたが、彼女の話題は真尋のことである。夜叉月は苦々しく黙り込み、耳を傾けた。
「私は心配でなりません。……あの子と……あなたのことが」
不意に自分の名が上がり、夜叉月は眉を跳ね上げた。
「何故私のことまで……やめろ、余計な世話だ」
夜叉月の制止も意に介さず、清香は言葉を続けていく。
「あなたはとても不器用で……真尋への深き愛を持ちながら、ご自身でもすべては自覚なさっていらっしゃらなくて……。それはとても尊い反面……いずれ、あなたたち二人を深く傷つけることになるのではないかと……」
この女は何を言っているのだ。
夜叉月は怪訝そうに瞳を細めた。しかし、彼女のどこまでも穏やかな声は、真尋と夜叉月という二人の孤独な魂を哀れみ、包み込むようだった。
「そう思うと……私は天界へ戻っても、すぐに居ても立っても居られなくなって、きっとあなたたちの元へ帰ってきてしまうのでしょうね」
「ふっ……お節介なもんだ」
まるで遠からぬ別れを予感しているかのような口ぶりだったが、夜叉月は敢えて深く追及しなかった。
―――その時。
背後でがさりと葉の擦れる音がした。そこには感じ慣れた小さな気配。
「……真尋?」
清香も同じ気配を察したように振り向いたが、地を踏みしめる足音とともに遠ざかっていった。
清香はすぐさま後を追おうと立ち上がったが、一歩踏み出したところで引き止められたように足を止めた。そして自信を失ったように頭を垂れて立ち尽くす。
夜叉月は立ち止まる清香の横を抜け、真尋の去った気配を辿って住処へと戻った。




