第三十三章 清香と夜叉月 【後編】
それからというもの、天女は相も変わらず木の実やら花やらの貢ぎ物を毎日欠かさず届け続けた。
真尋は毎日忙しくしていた仕事が一つ減ったことをありがたがっていたが、夜叉月は少々うんざりしていた。
真尋はどんなにたくさんの花を送られようと、自ら腕いっぱいの野花を母の墓に供える日課は欠かさなかった。ただ墓石を囲んで咲き誇る花々を見る度に、幸せそうに目を細めた。
不思議なことにその花たちは、何日経とうが一本たりとも枯れることはなかった。
「夜叉月様は最近少し変わられましたね」
「そうか?自分では分からないな」
「何というか……少し、表情が柔らかくなった気がします」
夜叉月が視線を向けると、真尋ははっとして焦りだした。弁解するように顔の前で両手をぶんぶんと振っている。
「えぇと……失礼に聞こえたらごめんなさい!決していつもの夜叉月様が冷たいという意味ではなく……普段からとても格好良いのですが……!」
「そう慌てるな。お前が私のことをどう思っているかなど、言われずとも分かっているさ」
「……そ、そういうところです」
「……?」
真尋は照れたように俯く。
この花畑ができてからというもの、夜叉月と真尋はこうして花を眺めながら、短い会話を交わすのが日課となっていた。
◇
数日後、夜叉月は久方ぶりにひらひらと衣を靡かせて飛ぶ清香の背に遭遇した。
「清香。そろそろ、それはやめてくれないか」
清香はびくっと肩を震わせ、恐る恐る振り返る。彼女は山菜と木の実を大量に積んだ籠を運んでいるところだった。
「せめて二人で食べ切れる分にしろ」
「……そ、それは……食べ切れる量であれば、届けてもよろしいということでしょうか?」
「そうだな。真尋もありがたがっていることだし、私がそれ以上口を挟むのもおかしいだろう」
そう告げた直後、夜叉月はすぐに己の迂闊さを後悔することになる。
「……どうしてこうなった」
その日、夜叉月が大江山周辺の巡回から戻ると、そこには人間の着物に身を包んだ清香が、囲炉裏でせっせと夕餉の準備をしていた。
清香は火にかけた器の中に、山になって余っていた山菜を容赦なく流し込んでいく。
「あ!夜叉月様、お帰りなさい!村から来てくださった清香さんです。何やら事情があって村の方にいられないそうで……しばらくここに置いてあげてもいいですか?」
……どんな事情だ。
「……ここはお前の家だ。真尋の好きにするがいい」
「あ、ありがとうございます」
破顔する真尋の後ろで、清香もまたにこりと口角を上げた。
夜叉月は溢れかえっている鍋の中身に目を細める。どう見たって、三人がかりでも一日で食べ切れる量ではない。
「……そんなに仕込んで、どうするつもりだ」
「ご心配なさらずに。こう見えて、私はよく食べる方なのです」
「……」
ぽかんと口を開けて固まる真尋を見るに、彼も自分と同じ思いらしい。
清香は鼻歌を口ずさみ、「秘伝のタレです」と言って、持参した壺から妖しげな黒い液体を掬い入れた。
機嫌良く鍋をかき混ぜる清香に、二人はただ呆然と立ち尽くして見つめるしかなかった。
やがて出来上がった豪華な夕餉を前に、真尋は瞳を輝かせていた。
「これ、とっても美味しいです!!」
秘伝のタレとやらが効いているのか、普段真尋の作る汁とはまるで違っていた。
夜叉月にとってはいつもの汁で十分だったが、真尋はすっかりこちらの味が気に入ったようだ。
具材も豊富で、育ち盛りの真尋の滋養を考えれば、確かにこちらに軍配が上がるか。
「お口に合いましたのなら、これから毎日作って差し上げますね」
……毎日とは、いつまでだ。
夜叉月は辟易した。
片付けを終えると、清香は当然のように布団を敷いて真尋とともに横になった。
半ば強引に真尋を布団に引き込むものだから、真尋は真っ赤になって戸惑っていた。
「なんて可愛らしい!ずっとこうして抱き締めて眠りたかったのですよ」
「えっ?!ずっととは……?!えっ?!」
「あら、気にしないでください。こちらの話です」
夜叉月はいつもの通り壁に背を預けて座り、そのやり取りを呆れ半分、諦め半分で眺めた。
真尋が嫌がっている風でもなし。好きにさせればいい……。
「あら、あなたは一緒に寝ないのですか?」
「馬鹿を言うな」
清香は首を傾げ、それ以上は追及しなかった。
毎日という言葉の通り、清香は季節が変わってもここに棲みついている。
そんなある日の夜更け。
夜叉月は肌を刺すような小さく鋭い異変の気配に目を開いた。
―――不入の池。夜叉月の直感が即座に警鐘を鳴らす。
眠る二人に結界を施すと、夜叉月は疾風のごとく大江山を駆け上がった。
池の前まで来ると、一帯に立ち込めた霧が今夜はいつに増して濃く漂っていた。夜叉月は術で足元を照らすが、この霧のせいで視界は最悪だ。
神経を研ぎ澄ませて辺りを探る。周囲に鬼の残党の気配はない。
ただ清らかな水が湧き上がるだけの静かな水面も、一見すれば何の変哲もない。だが―――水底の奥深くから浮かび上がって来る鬼気が脈打つのを、確かに感じた。
指を立てて目を閉じ、慎重に水底の祠へと意識を深く潜らせる。
細部まで念入りに探ること数刻、夜叉月はようやく見つけた。砂の粒ほどの微細な「綻び」を―――
夜叉月は眉を潜めた。
この封印結界は、歳月によって勝手に風化するような粗末なものでは決してない。この小さな隙間を作るのでさえ、莫大な霊力を要したはずだ。
内側か、あるいは外側から、意図的な力が介入したのは間違いない。だが、結局破壊するには至らなかったのだろう。
穴は些細なもので、こんな隙間から這い出せる鬼などいない。酒呑童子や他の鬼の気配も依然として封印の奥底に縛り付けられていた。
問題はない。また塞ぎ直せば済むだけのこと。すぐに夜叉月は印を結び、結界の綻びを完璧に修復した。
だがなんだ。この胸騒ぎは。
今夜の空は分厚い暗雲に覆われ、月明かりすら届かない。その中では夜叉月の身を包む青銀の光も影を潜めていた。
夜叉月は得体のしれない小さな焦りが胸を巣食っていくのを感じながら、着物の胸元をぐっと握りしめた。




