第三十三章 清香と夜叉月 【前編】
「あの子のことが心配ですか?」
清香と名乗った天女は、まるで水の中を泳ぐかのようにあちこちゆらゆらと宙を舞う。
「不思議ですね。護法善神の中でも特段冷徹な方だと聞き及んでおりましたが……あ、普賢様がそう仰ったわけではございませんよ?」
言いながら、天女が目の前を横切った。流れてきた金魚の尾ひれを思わせるしなやかな羽衣の端が、夜叉月の頬をくすぐるように撫でる。
流石天界の者と言うべきか。魅惑的な香気を纏った立ち振る舞いは、そこらの人間ならころりと惑わされているだろう。
だが、夜叉月は鬱陶しそうに眉根を寄せて、その揺らめく薄絹を払った。
「あら、ごめんなさい!お邪魔でしたね!布地が多いものでして」
慌てて衣を手繰り寄せる彼女には、相手を惑わせる意図などさらさらなかったらしい。
心が揺らぐことなど毛頭ないが……実にはた迷惑な女であることには違いない。
「何をしにここへ?」
「ですから、様子を窺いに……」
「その目的を聞いている」
「ええと……ただ、興味を惹かれまして……」
真面目に問いかけた自分が愚かだった。天女というものは、どうやら頭の中にまで花が飛んでいるらしい。
これ以上は時間の無駄だと判断し、夜叉月は無言でその場を立ち去った。
命を受けるため、夜叉月は一度仏界へ赴いた。季節二つ分ほど溜め込んでいた任務は数十にも及び、不動明王から小言を喰らう間、仏界の面々は夜叉月に同情の視線を向けていた。
仏界には特段関心のない夜叉月は、命だけ受けるや否や早々と下界へ戻った。そこからは各地を飛び回り、普段通り淡々と悪鬼怨霊を叩き斬っていく。そうして溜まっていた務めを数日のうちに片付け、京の北山へとあっという間に戻っていった。
真尋の待つ住処へ戻ると、真尋が興奮した様子で夜叉月を出迎えた。
家の中に置かれた籠には、山菜や木の実が高々と積まれている。そんな籠が三つも並んでいた。とてもじゃないが、二人で食べきれる量ではない。
「これは……一体……」
「聞いてください、夜叉月様!毎朝起きる度に、戸の前に山菜や木の実が山のように置かれているのです!時折、まるでこの世のものとは思えない幻想的な布が揺れていたり……とにかく不思議なことがたくさんあって!!」
「……」
夜叉月は真尋の言葉を聞きながら、ゆっくり目を細めていった。
よく見れば籠の中には、ここらへんで採れるものではない珍しい木の実まで交じっている。
どうやらあの天女は随分とお節介で、夜叉月たちを放っておく気は毛頭ないらしい。
「おかえりなさい。お早いお戻りでしたね」
川で身を清めた帰り道、夜叉月は再びあの脳天気な声に呼び止められた。足を止める気などなかったが。
「あなたが留守の間も、あの子は真に立派でしたよ。怠ることなく自らの役目を果たし、毎日裏庭の石に花を供え……なんて健気な真尋でしょう」
天女の言葉に、夜叉月の歩みが勢いをなくす。
慈しみを込めて真尋を呼ぶ声は、夜叉月に満の存在を思い出させた。
「ただ……毎夜声を殺して涙する姿には、胸が締め付けられる思いでした。叶うことなら、あの子の前に姿を現して抱きしめてあげたかったくらいです」
毎夜……泣いていた?
夜叉月の足が、完全に止まった。
ここ一年ほど、真尋が夜叉月の前で涙を見せることはなくなっていた。時の流れとともに傷も癒えたのだと、そう思っていた。
夜叉月は突如として駆け出した。住処へ戻って引き戸に手をかけた時、背後から息を切らした真尋の声が飛んできた。
「や、夜叉月様ぁ!!!」
振り返ると、走ってきた真尋が立っていた。その琥珀色の瞳には、溢れんばかりの驚きと歓喜が宿っている。
「どうした?」
「こ、こちらへ!!」
真尋は夜叉月の袖を掴むと、ぐいぐいと引っ張って裏庭へと連れて行く。普段はどこまでも礼儀正しく振る舞う真尋の突拍子もない行動に、夜叉月は目を丸くした。
「こ、これを見てください!」
案内された裏庭に足を踏み入れ、夜叉月は言葉を失った。そこには見渡す限りの「花の海」が広がっていた。
常ならば、草の生い茂る裏庭にぽつんと置かれた石の周囲に、真尋が摘んできた花が慎ましく添えられているはずだった。
だが今、目の前の光景はどうだ。豪華絢爛な色とりどりの花々が、裏庭一面を覆い尽くして咲き誇っていた。香しい花の匂いが辺りいっぱいに立ち上がる。
圧巻の光景に夜叉月はしばらく言葉が出てこないままだった。
あの天女め……花畑は頭の中だけに留まらないらしい。
彼女のあまりの破天荒ぶりに、夜叉月の胸の奥から唐突に可笑しさが突き上げてきた!
「ふっ……ふふっ……あはははっ」
「っ?!や、夜叉月様?!」
耐えきれず、声を上げて笑ってしまった。長い神生において、これほど笑ったのは記憶にない。一度溢れ出した笑いは止まらず、腹まで抱えてしまうほどだった。
真尋が仰天したように口を開けて夜叉月を見上げている。夜叉月は何の気無しに真尋の頭に手を置いて、ぽんぽんと弾ませた。
―――さぁ、この悪戯を仕掛けた型破りな天女の顔でも拝んでやろうか。
夜叉月が彼女の気配をたどり、少し離れた木の上に視線を移す。木の陰で、彼女のひらひらとした衣が揺らめくのが見えた。
髪の隙間から黒曜石の眼差しで、その表情を盗み見れば―――両手で口元を押さえ、頬を朱に染めた天女の姿がそこにあった。
「や、夜叉月様……?」
急に笑いの止んだ夜叉月を、真尋が心配そうに覗き込む。真尋には清香が見えないらしい。羽衣で姿を隠しているのだろう。真尋が怪訝そうに首を傾げる。
夜叉月はもう一度花畑を見渡した。
清香は悪戯などではなく、真剣にこれをやってのけたらしい。なんて女だ。
花の香に包まれて、優しい春の風が夜叉月と真尋の髪を揺らしていた。




