↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
70/74

第三十三章 清香と夜叉月 【前編】

「あの子のことが心配ですか?」


 清香と名乗った天女は、まるで水の中を泳ぐかのようにあちこちゆらゆらと宙を舞う。


「不思議ですね。護法善神の中でも特段冷徹な方だと聞き及んでおりましたが……あ、普賢様がそう仰ったわけではございませんよ?」


 言いながら、天女が目の前を横切った。流れてきた金魚の尾ひれを思わせるしなやかな羽衣の端が、夜叉月の頬をくすぐるように撫でる。

 流石天界の者と言うべきか。魅惑的な香気を纏った立ち振る舞いは、そこらの人間ならころりと惑わされているだろう。

 だが、夜叉月は鬱陶しそうに眉根を寄せて、その揺らめく薄絹を払った。


「あら、ごめんなさい!お邪魔でしたね!布地が多いものでして」


 慌てて衣を手繰り寄せる彼女には、相手を惑わせる意図などさらさらなかったらしい。

 心が揺らぐことなど毛頭ないが……実にはた迷惑な女であることには違いない。


「何をしにここへ?」

「ですから、様子を窺いに……」

「その目的を聞いている」

「ええと……ただ、興味を惹かれまして……」


 真面目に問いかけた自分が愚かだった。天女というものは、どうやら頭の中にまで花が飛んでいるらしい。

 これ以上は時間の無駄だと判断し、夜叉月は無言でその場を立ち去った。



 命を受けるため、夜叉月は一度仏界へ赴いた。季節二つ分ほど溜め込んでいた任務は数十にも及び、不動明王から小言を喰らう間、仏界の面々は夜叉月に同情の視線を向けていた。


 仏界には特段関心のない夜叉月は、命だけ受けるや否や早々と下界へ戻った。そこからは各地を飛び回り、普段通り淡々と悪鬼怨霊を叩き斬っていく。そうして溜まっていた務めを数日のうちに片付け、京の北山へとあっという間に戻っていった。


 真尋の待つ住処へ戻ると、真尋が興奮した様子で夜叉月を出迎えた。

 家の中に置かれた籠には、山菜や木の実が高々と積まれている。そんな籠が三つも並んでいた。とてもじゃないが、二人で食べきれる量ではない。


「これは……一体……」

「聞いてください、夜叉月様!毎朝起きる度に、戸の前に山菜や木の実が山のように置かれているのです!時折、まるでこの世のものとは思えない幻想的な布が揺れていたり……とにかく不思議なことがたくさんあって!!」

「……」


 夜叉月は真尋の言葉を聞きながら、ゆっくり目を細めていった。

 よく見れば籠の中には、ここらへんで採れるものではない珍しい木の実まで交じっている。


 どうやらあの天女は随分とお節介で、夜叉月たちを放っておく気は毛頭ないらしい。


「おかえりなさい。お早いお戻りでしたね」


 川で身を清めた帰り道、夜叉月は再びあの脳天気な声に呼び止められた。足を止める気などなかったが。


「あなたが留守の間も、あの子は真に立派でしたよ。怠ることなく自らの役目を果たし、毎日裏庭の石に花を供え……なんて健気な真尋でしょう」


 天女の言葉に、夜叉月の歩みが勢いをなくす。

 慈しみを込めて真尋を呼ぶ声は、夜叉月に満の存在を思い出させた。


「ただ……毎夜声を殺して涙する姿には、胸が締め付けられる思いでした。叶うことなら、あの子の前に姿を現して抱きしめてあげたかったくらいです」


 毎夜……泣いていた?

 夜叉月の足が、完全に止まった。

 ここ一年ほど、真尋が夜叉月の前で涙を見せることはなくなっていた。時の流れとともに傷も癒えたのだと、そう思っていた。

 夜叉月は突如として駆け出した。住処へ戻って引き戸に手をかけた時、背後から息を切らした真尋の声が飛んできた。


「や、夜叉月様ぁ!!!」


 振り返ると、走ってきた真尋が立っていた。その琥珀色の瞳には、溢れんばかりの驚きと歓喜が宿っている。


「どうした?」

「こ、こちらへ!!」


 真尋は夜叉月の袖を掴むと、ぐいぐいと引っ張って裏庭へと連れて行く。普段はどこまでも礼儀正しく振る舞う真尋の突拍子もない行動に、夜叉月は目を丸くした。


「こ、これを見てください!」


 案内された裏庭に足を踏み入れ、夜叉月は言葉を失った。そこには見渡す限りの「花の海」が広がっていた。


 常ならば、草の生い茂る裏庭にぽつんと置かれた石の周囲に、真尋が摘んできた花が慎ましく添えられているはずだった。


 だが今、目の前の光景はどうだ。豪華絢爛な色とりどりの花々が、裏庭一面を覆い尽くして咲き誇っていた。香しい花の匂いが辺りいっぱいに立ち上がる。

 圧巻の光景に夜叉月はしばらく言葉が出てこないままだった。


 あの天女め……花畑は頭の中だけに留まらないらしい。


 彼女のあまりの破天荒ぶりに、夜叉月の胸の奥から唐突に可笑しさが突き上げてきた!


「ふっ……ふふっ……あはははっ」

「っ?!や、夜叉月様?!」


 耐えきれず、声を上げて笑ってしまった。長い神生において、これほど笑ったのは記憶にない。一度溢れ出した笑いは止まらず、腹まで抱えてしまうほどだった。

 真尋が仰天したように口を開けて夜叉月を見上げている。夜叉月は何の気無しに真尋の頭に手を置いて、ぽんぽんと弾ませた。

 

 ―――さぁ、この悪戯を仕掛けた型破りな天女の顔でも拝んでやろうか。


 夜叉月が彼女の気配をたどり、少し離れた木の上に視線を移す。木の陰で、彼女のひらひらとした衣が揺らめくのが見えた。

 髪の隙間から黒曜石の眼差しで、その表情を盗み見れば―――両手で口元を押さえ、頬を朱に染めた天女の姿がそこにあった。


「や、夜叉月様……?」


 急に笑いの止んだ夜叉月を、真尋が心配そうに覗き込む。真尋には清香が見えないらしい。羽衣で姿を隠しているのだろう。真尋が怪訝そうに首を傾げる。


 夜叉月はもう一度花畑を見渡した。

 清香は悪戯などではなく、真剣にこれをやってのけたらしい。なんて女だ。

 花の香に包まれて、優しい春の風が夜叉月と真尋の髪を揺らしていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。