第三章 夜叉月の贔屓筋 【後編】
夜叉月は音もなく立ち上がると、朝、蔵から出した刀を鞘ごと抜き、勝浦のすぐ横に正座した。
「こちらがお預かりしていたものです。ご確認を」
夜叉月が刀を差し出す。勝浦も夜叉月に向かい合い、それを受け取る。勝浦が芸妓に目配せすると、三味線の音はぴたりと止んだ。
勝浦は刀をゆっくりと鞘から抜き出す。
眉根を寄せ、眼光を研ぎ澄まし、射抜くように鋭く観察する。重たい沈黙の中、気が済むまで見つめた後、ふっと息を吐く。
「いつもながら実に見事だ。この特殊な鋼をこうも見事に研げるのはお前くらいだよ、清月。それで、見立ては?」
「江戸初期の刀工、虎徹の一振」
「ご名答。流石だねぇ。こいつの名は、影切。戊辰戦争の混乱の中で忽然と姿を消したと言われていたが、こいつを街の骨董屋で見つけた時には驚いた。清月に研いでもらったとなれば、さらに箔が付くな!」
夜叉月は、勝浦の満足気な顔を見届けて席に戻ろうと立ち上がる。
―――タンッ。
頭上から小さな物音が一つ。
夜叉月はぴたりと動きを止めた。夜叉月だけではない。勝浦もまた刀を持ったままぴくりともしない。二人とも同じ違和感を感じ、座敷に緊迫した空気が立ち込める。芸妓たちは背筋に冷たさを感じたが、姿勢を正して毅然としていた。
違和感―――夜叉月は、立ち座りで物音を立てたりはしない。あれは、誰かが屋根を蹴る微かな音が響いたものに違いない!
夜叉月はいつもの涼しい目で外の月を見やる。
「使え、清月」
勝浦が受け取ったばかりの影切を差し出した。夜叉月はそれを返事もせずに受け取る。
「それと、灯りを落としてくれないか?月明かりだけで十分だ」
勝浦が言いつけた通りに行灯が消され、座敷に闇が満ちる。
影切は、持った相手の手に自然と馴染む。何人もの血を吸ってきたであろうそれは、信じられない程清らかだ。
(ああ、やはり、いい刀だな)
ずしりと手首に満ちる重みがあるというのに、ひとたび腰を落とせば、まるで己の腕がそのまま伸びたかのようにすっと刃先が定まる感覚。
無意識に夜叉月の整った口角が上がった。
月に吸い込まれるように、障子の開け放たれた枠に近づいていく。
「お前さんたちは運がいい。こんな場に立ち会えるとはな。瞬きせずに見ていろ」
勝浦が逸る心を押さえられないといった様子で、興奮気味に身を乗り出す。
「全く隠せていないな。お前たちの殺気の裏に潜ませた……死への恐怖」
夜叉月は姿を見せない相手に言葉を放つ。
夜叉月の黒曜石の瞳に、不敵な青い光が宿る。
刹那―――
障子が内側へ向かって凄まじい音を立てて弾けとんだ!同時に四人の黒を纏った男も滑り込んでくる!
夜叉月は落ち着いた様子で、一枚を影切の柄で軽く弾き、もう一枚を足で蹴り飛ばす。しかも見事に刺客を一人ずつ巻き込みながら、上等な障子は無惨に引き裂かれ、窓枠の外へ落ちていった。卓には破片の一つも降りかかりはしない。
残りの二人はあまりの神業を目にし、わずかに硬直したが、夜叉月は人間相手に隙を付くような刀神ではない。余裕で二人を待ってやる。
ダン!
黒の男たちが漸く腹を決めて刀を構え、前のめりに疾風の如き勢いで畳を蹴る。たが、夜叉月は疾風より速い。
歩みはそのままに、鞘を真後ろに引き、右手は胸の前に巻き付けるように柄を捉える。月明かりに照らされたところから順に、夜叉月の黒が青銀を纏っていく。
鞘から解き放たれた刃が水平な半円を描いて空を裂く。夜叉月の動きを追うように深い青銀の残光が揺らめいた。
勢いを一瞬で殺し、止める。刃先はすでに、男らの喉元を同時に捉えていた。男たちは振り上げた刀を下ろすどころか、息をすることさえ許されない。
夜叉月は影切の刃を下げるのと同時に、一歩で男の背後に回り、首元を手で払う。男たちはバタバタと崩れ落ちた。
夜叉月は確かめるようにもう一度刀で空を切ると、そのまま流れるように刃をくるりと回してかちりと鞘に収める。
影切を眺め、夜叉月はふっと息を漏らした。
(あぁ、やはり、いい刀だ)
夜叉月が月明かりの元から暗闇へと足を運ぶと、夜叉月を囲む光の粒子が徐々に色を失い闇にのまれていく。
暗闇の中で名残惜しそうに眉根を寄せる三人には気付かず、夜叉月は影切ばかりを愛でていた。
余韻のような静寂が流れ、夜叉月が再び影切を勝浦に両手で差し出すと―――
どっ!と座敷が沸いた!
「ほら見たか!いやぁ!痺れたねぇ!!」
勝浦は豪快に笑い、女たちは恍惚の眼差しで見つめ、夜叉月は拍手喝采を浴びた!




