第三十二章 真尋の血筋 【前編】
「刀神様……お願いがあります。私が行った後、どうかあの子を見守っていただきたいのです」
三年前、そう言い残して旅立った女の背を、よく覚えている。
―――人間とは、どこまでも愚かだ。
酒呑童子を討ち果たした後、仏界の護法善神となった夜叉月は、各地の任を帯びてしばらく京を離れていた。
その隙を突くように現れた鬼の残党が、報復として再び京の外れの村を荒らしたことで、人々は恐れおののいた。
祈るだけでは足りぬと知ると、いつしか生け贄まで差し出すようになった。
それは鬼たちが好むとされる、若く美しい女たちだった。
それ以来、十年に一度村の女を捧げ、鬼の気を鎮めているのだという。
だが、実際に鬼を制しているのは生け贄などではない。戻った夜叉月がただ片っ端からそれらを斬り伏せているだけのこと。
女たちの命などなんの意味もなかった。
それでも、一度擦り込まれた人間たちの信仰心は簡単には揺らがない。
夜叉月はくだらないと思いつつも、彼らの判断に干渉することはしなかった。護法善神とは、ただ法則に従うのみ。人間同士の愚かな戯れに、情など無用であった。
時が流れ―――三年前、白羽の矢が立ったのが、真尋の母親、満だった。
「刀神様、こんな辺境まで、花を供えにきてくださってありがとうございます」
「……いや」
「ご先祖様も、きっと喜んでいますでしょう」
穏やかな笑みを見せる満は、あの酒呑童子討伐の日、唯一命を落とした女の末裔であった。
彼女の濃紺の瞳は、光を浴びると琥珀色にも見えるようで、美しく澄んでいた。
ここは京の北端。都から離れ、大江山から連なる山脈の陰に位置する場所。
村の外れの茂みの中に佇む簡素な住処。その裏庭には、重々しい石が隠れるように置かれている。夜叉月はこの地を訪れるたび、その石の前に花を添えていた。
「子は……大きくなったか?」
「ええ。真尋は今、近所の子らと遊びに出ておりますが……相変わらず刀神様に憧れ、毎晩あなた様の物語をせがむのです。ここへ来られたと知ったら、泣いて喜ぶでしょうに」
満は愛おしそうに目元を細めた。
あの童は真尋といったか。
夜叉月は暇が出来ると花を持ってこの地を訪れた。誰に声をかけるでもなく、ただ花を置いて去るだけだったのだが。
意外と鼻の利く満が、訪れた夜叉月の気配に気付くようになり、声をかけてくるようになったのは少し前のこと。
以前見かけたときは、真尋という童は満の背におぶられていた赤子だった気もするが、今はもう無邪気な声をあげて山を駆け回っているのだろう。
「私はもう行く」
「はい。……あの、その前に……刀神様にお伝えしたいことが」
用を終え、立ち去ろうとした夜叉月の背に、満の声が届いた。
その顔つきは先程までの柔らかさを消し去り、悲壮な決意を宿した目で夜叉月を真っ直ぐに見つめていた。
「次は……私が向かうことになりました」
夜叉月はすべてを察して目を細める。
「……いつだ」
「三日後です」
十年に一度選ばれる生け贄は、毎回この血筋からと決まっていた。
人間どもが身勝手な理由をつけ、かつて酒呑童子を討つために命を張った女を祭り上げ、その子孫を標的にしたのだ。
あの者の存在をなかったことにしたり、後になって急に崇めあげたり、実に都合がよく、浅ましいことこの上ない。
要は、自分たちの犠牲無くして、この儀式を継続したいだけだ。
「やめておけ。行くだけ無駄だ」
「……っ。あなたがそう仰るのなら、きっとそうなのでしょう。ですが、断ることなど出来ないのです。そうすれば、あの子や、この血筋の者たちがどんな扱いを受けるか……」
「……」
「刀神様!図々しくも……お聞き頂けないでしょうか。私亡き後、どうかあの子を―――」
満は縋るように、夜叉月へ言葉を絞り出した。
儀式の夜、人々が息を潜める静寂の中、彼女の家の前に松明を掲げた数人の村人たちが集まっていた。
この日、真尋は別の民家に預けられたようだ。
家の中から白装束に身を包んだ満が姿を現す。
夜叉月は人間の為すことに、大方興味は持たないが、何故かこの夜はその一部始終を見届けることにした。
身を潜め、樹々の影を渡りながら村人たちの後をつける。
揺らめく松明の火とともに、彼らは大江山の険しい山道を上り続け、鬱蒼とした老杉の群生を抜けていく。たどり着いたのは山懐にひっそりと横たわる小さな山頂湖。
―――「不入の池」。
年中冷たい山霧が薄絹のように水面を覆い、鳥のさえずりさえ届かぬ静寂の地。里の者たちから恐れられ、誰も近づかぬ禁忌の場所。
それは暗闇の中で、他の何よりも黒く底のない地獄の沼のように見えた。
日中この池を覗けば、水清ければ魚棲まずの言葉通り、透明度の高い水底には藻の一本さえ生えていない。しかし、その静寂の底深く―――蒼く透き通る水底の岩盤には、かつて童子切安綱の刃が穿った亀裂と重々しい鉄の鎖に固く縛られた石造りの祠が沈んでいる。
そう、ここは、八十年前に酒呑童子を封印した、まさにその池であった。
夜叉月は睨みつけるように水面を見つめ、神経を研ぎ澄ませる。
鎖の隙間から立ちのぼる薄黒い妖気は、清らかな湧き水によって刻一刻と洗われ、沈められていく。八十年の歳月が流れてなお、かつて京を脅かした鬼の重い呼吸のような水泡が、静かに浮かんでは消えていた。
(まったく、しぶとい鬼だ。隙あらばとこちらを窺っているようだ)
だがこの鬼気は、生け贄を捧げようとどうにかなる代物では決してない。夜叉月は指を立て神気を込めると、その執念深い鬼気を一瞬で押しつぶし、大人しくさせた。
「酒呑童子よ。ここに新たな生け贄をを捧げよう。彼女の命を依代とし、再び眠れ」
陰陽師が湖へ語りかけると、満は村人に背を押され湖の前へと立たされた。
それまで大人しく従っていた満の瞳に、突如として絶望の影が落ちる。すると急に気が触れたように叫びだし、その場へと崩れ落ちた。
「真尋―――!!!どうか、どうか、あの子を!!真尋!!真尋!!どうかお許しください!!真尋を一人には出来ません!もう一度この手で抱かせてください!!真尋!!真尋!!」
それは死への恐怖ではなく、どこまでも深く我が子を思い嘆く母の悲嘆の絶叫だった。泣きじゃくる母の悲鳴が、木々の静寂に木霊する。
村人たちは抵抗する満を容赦なく地面へと押さえつけた。
「あぁぁぁ!!!」
無理矢理に押さえつけられ、満が痛みに声を張り上げた。男たちが力任せに手足を縛り、布で口を塞ぐ。生け贄として捧げた者が死の恐怖を目前にし、相手を冒涜することがないようにするのだという。
満はもはや真尋の名前を呼ぶことすら出来ず、くぐもった声を上げるばかりだった。それでも最後まで必死に身を捩り、抵抗を続けた。
満は暴れるまま飾られた長籠に押し込められたが、ひと通りの儀式を終える頃には力尽き、虚ろな瞳でただ夜空を見つめていた。その頬を、涙が絶え間なく伝い落ちていく。
長籠がゆっくりと水面へ傾けられ、パシャンと澄んだ水の音とともに闇へと沈んでいく。長籠に飾られていた花だけが水面を彩るように揺れ、やがてそれも暗闇へと消えた。
それを見届けると、夜叉月は踵を返し、山を下りた。
満は我が子の未来を思って命を捧げた。だがそれによっては真尋が報われることはない。それはただあの村人たちの浅ましい欲を満たすだけでしかなかった。
夜叉月の瞳には、この村人たちが酒呑童子よりもよっぽど悍ましい存在に映っていた。
◇
夜叉月は山をおりてすぐに、村へと向かった。まだ夜明けには遠い暗闇の中、ある民家の前で立ち止まり、無遠慮にドンドンと戸を叩く。起き抜けの女が、乱暴に戸を引き開けた。
「誰だい!!こんな夜更けに!!」
「真尋はいるか」
「は……?……あんたは一体……」
不機嫌な声を張り上げかけた女は、夜叉月の尋常ならざる神気を前にし、一瞬で言葉を失った。
「ど、どちら様でございますか」
「お前たちが『刀神』と呼んでいる者だ。真尋はいるか」
「ま、まさかあの刀神様?!な、なぜこのようなところへ―――」
取り乱す女を無視し、夜叉月は勝手に中へと上がり込んだ。部屋の隅で薄い掛け物も与えられずに転がされていた真尋を見つけ、夜叉月は眉根を寄せた。
まさに今夜、こいつらのために命を捧げた女の、実の子だぞ!
夜叉月は真尋の小さな身体を両手で掬い上げると、そのまま戸口へと向かう。
「あのっ!その子をどこへ―――!」
背後で女が慌てた声を上げたが、夜叉月は振り返りもせず歩み去った。
腕の中で真尋が身じろぎをし、目を擦りながら重たい瞼をうっすらと上げる。
「あ、あれ……僕……?」
「起こしたか。悪かったな」
「あ、あなたは……?」
「……」
夜叉月が答えずにいると、真尋は夢現のまま、へらへらとした笑みで夜叉月を見上げた。
「えと……でも僕、分かる気がします……もしかして……刀神様?」
「……あぁ」
「やっぱり。……だって、僕が思っていた通り、すごく格好良いもの。これ……僕の夢ですか?ずっと会ってみたかった刀神様とお話しているなんて……」
人間の願いなど聞いてやる義理はない。護法善神に情など無用。別に人の命をすべて助けようなどと、無謀な使命があるわけでもない。
では、何故だろう。
夜叉月はこの夜、天涯孤独となったその童に、気まぐれに手を差し伸べた―――
「真尋。私とともに暮らすか」




