第三十一章 真尋と刀神 【後編】
その日、寝静まった真尋の隣でいつものように月を見ていた。今宵の月は、その肌面の模様もはっきり見えるほどに大きな満月だった。
これほどの美しい満月はいつぶりだろう。
こんな日は決まって、護法善神となったあの夜を思い出す―――
とある地で悪鬼を斬った日のこと。今しがた振り下ろした刀を一度払って、丁寧に鞘へ収め、来た道を戻ろうと振り返ると、そこには白衣に身を包んだ、美しい男が立っていた。
男は和やかな笑みを浮かべているが、いざその目で見据えられれば息も忘れてしまいそうな神気を放っている。その瞳は瞬きもせずに真っ直ぐに夜叉月を見つめていた。
「どなたですか。私に何か御用ですか」
「我が名は普賢。私はね、夜叉月。お前のことがすっかり気に入ってしまってね」
「見るからに高貴なお方ですが……一体何の御用で……」
「夜叉月、私と一緒に仏界へ来ないか?」
こうして普賢菩薩に手を引かれ、夜叉月は仏界の門を潜った。
絢爛たる蓮華蔵世界。
すれ違う仏たちは皆遠巻きに畏怖の念を含んだ視線を夜叉月へ投げていた。
漆黒の衣に身を包み、映るものすべてを斬り伏せようとするかのような黒曜石の瞳。華やかな虹色の中で、彼だけが異様だった。
だが前を歩く普賢菩薩だけは、愉快そうに髪を弾ませていた。
途中、皆が遠巻きに見守る中、普賢菩薩に話しかけてきた者が一人いた。
「普賢尊者、その者ですか。以前からおっしゃっていた刀神というのは」
「あぁ、虚空蔵尊者。えぇ。いい目をしているでしょう?私が見つけたのですよ」
「ふふっ。実に嬉しそうだ。何よりです」
短い会話を交わすと、虚空蔵菩薩は夜叉月にも小さく会釈をしてにこやかに立ち去っていった。
夜叉月はその後、大日如来の前で法への忠誠を誓い、正式に護法善神となった。
正直夜叉月は肩書き自体に興味はなかった。護法善神の役割を聞いた時、今やっていることと大差ないと思い二つ返事で引き受けたまでだ。
もっとも護法善神は名ばかりではなく、その身分は夜叉月の神気と霊力を何倍にも引き上げた。
仏界の外れに聳える楼閣。下に広がる幻想的な雲海の狭間に見える巨大な蓮池。
夜叉月と普賢菩薩は空に浮かぶ満月と水面に映り込んだもう一つの月の間にいた。
楼閣内も周辺もざっと見る限り自分たち以外の人影はなく、静寂の中、普賢菩薩の愉しそうな笑い声だけが空間に響いていた。
回廊の手すりに背を預けた普賢菩薩は、この美しい外の景色に興味はなさそうだ。
「他の菩薩たちの顔を見たか?!みんなお前を見て身を縮めていたな!」
「そうでしたか?」
「そうだとも!しかもあの不動明王を前にしても、一切怯まない姿は圧巻だったぞ! あははっ」
今日一日で分かったが、この普賢菩薩は他の菩薩たちとはどうも毛色が違うらしい。
他の菩薩たちが貼り付けたような笑みで心内を隠したように会話する中、普賢菩薩だけはしっかりと内側が垣間見える。あまり隠す気はないのかもしれない。
「確かに、明王様は新人にも厳しい方のようですね」
「はははっ! お前の態度に明王も呆気に取られていたのは見ものだった! ただ、彼はきっとお前のことが気に入ってしまっただろうね」
「それは、よく分かりませんね」
夜叉月はただじっと月を眺めていた。仏界から見る月は現し世で見るそれよりも壮大で、肌の表面の模様まで美しくはっきりと見える。
「普賢様、結局あなたは何故私をここへ連れてきたのですか」
「言っただろう?気に入ったんだ」
そんな理由で護法善神を適当に選んで良いのか?
そんな夜叉月の表情を読んだように、普賢菩薩はふっと笑いをこぼす。
「勘違いさせたかな?もちろんお前は、その身に宿る人々からの祈りや神気も申し分なかったさ。気に入ったというのは……強いて言うなら、その瞳、だろうね」
「瞳?」
普賢菩薩は真っ直ぐ夜叉月の瞳を見た。
「すでに多くを斬ったというのに、お前の瞳は変わらず美しく純粋だ。まるであの月のように」
普賢菩薩はようやく顔だけ振り返って、月を映したが、一瞥だけしてさっさと再び夜叉月へと視線を戻した。
お前の瞳の方が美しいと言われているような眼差しに、夜叉月は少し居心地が悪くなる。
「……よく分かりませんね」
「難しく考えるな。私はただお前の行く末に興味があるだけだ」
「私はただ刀を振るうしか能がありません。あなたに、ここ以上の景色を届けられるとは思いませんが」
夜叉月は冗談のつもりは無かったが、普賢菩薩は空を仰ぎ見て再び笑い出す。
「はははっ。『最強の刀神』がずいぶんな謙遜だな。まぁそう気負うな。お前の好きにしたらいいんだ。愛したいものを愛し、救いたいものを救えばいい。私はそれを見届けたいだけなのだから」
夜叉月はやや目を細め、普賢菩薩を横目で見た。
彼の言う愛は余りに気まぐれなものに聞こえ、それはこの道においては、執着や苦しみの元凶になるものでしか無いはずだ。
菩薩のくせに、なんてことを勧めてくるんだ、この方は。
「なんですか、それは。今日正に護法神になったばかりの身だというのに……愛などと……くだらないですね」
「なんだ堅いことを言うな。もしかしたら、お前にも分かる日が来るかも知れないよ」
「……そんな日、千年経っても来ないと思います」
普賢菩薩は最後まで愉快そうに夜叉月を見て笑っていた。




