第三十一章 真尋と刀神 【前編】
―――あぁ、ここはどこだったか。
私は何をしていたのだろうか。確か……大切な「誰か」を守ろうと―――
「―――刀神様、夜叉月様!起きてください、夜叉月様!」
ゆっくり瞼を開くと、昼下がりの日差しに、夜叉月は思わず眉をひそめた。
巨木の幹に背を預け、考え事をしながら目を閉じていたところ、目の前の小さな童の声に意識を引き戻されたのだ。
「……お前か」
「立ったまま寝ているなんて」
寝ていたわけではないのだが、特に弁明もしない。
この童子―――真尋は、摘んできた野花を腕いっぱいに抱えていた。夜叉月を起こした彼は、裏庭の方へと駆けていった。
ここは内裏[都の中心]から遠く離れた京の北端。大江山から冷たく澄んだ風が吹き下ろす地。
苔むした古木に寄り添うように建つ、質素な木造の家。朝夕には薄い山霧が立ち込め、家全体を優しく覆い隠す。
夜叉月はここで二年ほど真尋と暮らしていた。
共に暮らすと言っても、護法善神である夜叉月が人間の子の世話をするわけではない。食べる必要も寝る必要もない彼は、衣食住のすべてを卒なくこなすこの童子をただ見守るだけだ。
傍から見れば、夜叉月の方が齢十程の童子に世話されているように見えるかもしれない。
「夜叉月様、昼餉にしますよー」
裏庭から戻ってきた真尋の呼ぶ声が聞こえ、夜叉月は無言のまま家の方へと歩き出す。
「今日は村に出て、拾った薪を売ってきます」
山菜入りの汁を吸いながら、真尋はにこにこと夜叉月を見上げる。
何をそんなに嬉しそうに……。
夜叉月に食事は不要だが、真尋が根気強く誘ってくるものだから、いつしか毎日同じ食卓を囲むのが習慣となっていた。無口な夜叉月は特に気の利いた相槌も打たず、ただ真尋の言葉に耳を傾ける。真尋だけが一方的に話しているというのに、この童子はいつも楽しそうによく笑った。
「夜叉月様に手伝わせてしまうなんて……」
食後、到底一人で背負いきれない量の薪の束に四苦八苦していたので、夜叉月が半分解いて持ってやったのだ。申し訳なさそうにしつつも、真尋は嬉しさを隠しきれずに目を細めていた。
夜叉月には、この身寄りのない童子が、どこか生き急いでいるように見えてならなかった。
人里へ下りると、人の良さそうな笑みを浮かべた村人たちが、薪と交換する品を手にして真尋へと寄ってきた。
「あら、真尋……刀神様もご一緒でしたの」
女がひとり夜叉月へ恭しく会釈し、その後も真尋と話しながらちらちらとこちらに目線を注いでくる。僅かに頬を赤らめて。
ここの村人たちは、哀れな真尋が刀神に引き取られ共に暮らしていることを知っていた。
そして、滅多に姿を現さぬ刀神が一目見られるこの機会を、熱狂とともに待ち望んでいた。
「お母様を病気で亡くしたのは本当に痛ましいことだったけれど、刀神様がついていてくれて本当によかったわね。あなたは幸運だわ」
「はい。母上も、きっと安心しているはずです」
真尋は照れ臭そうに、夜叉月を小さく見上げた。
「そうね、真尋がこんなに立派になって、お母様も誇らしいに違いないわ」
女は真尋へと声をかけながら、相変わらず不快な目線をこちらに向けていた。
―――白々しい人間どもめ。
人間というものは息を吐くように嘘をつく。どれほど言葉を飾ろうと、内から滲む浅ましさは隠しようもない。この見苦しさこそが人間という愚かな種の本質なのだろう。
ただこの童子が、そんな人間たちにへらへらと向ける笑顔がやけに癇に障った。
真尋は一日中歩き回り、自分の仕事をこなす。それを夜叉月は一日中ついて回り、ただ見守った。
帰り道に咲いていた野花をあちこちで摘み、腕いっぱいに抱えると、真尋は一日の仕事を終えた。
「今日はありがとうございました。助かりました」
「……いや」
「おやすみなさい」
床に手をついて恭しく頭を下げ、真尋は畳草を編んだ簡素な寝床に横たわった。
真尋が深い眠りに落ちた夜更け。
今夜はやたらと風が騒がしい。大江山からの風が、忌々しい不快な匂いを引き連れて降りてきたようだ。
夜叉月は童子切の柄に手をかけると、音もなく立ち上がり、静まり返った住処を後にした。
暗雲が次から次へと月を覆い隠していく。山の中に足を踏み入れると、荒ぶる夜風が夜叉月を取り囲んだ。
「さぁ、出てこい。落ちぶれの生き残り」
「まったく、相も変わらず口の減らない若造め……」
暗闇から現れたのは、大江山に蠢く鬼の残党。艶やかな髪と瞳。人を惑わす美しい容姿がいかにも鬼らしい。だが残念ながらその滑らかな頬には、大きな切り傷が縦にざっくりと伸びていた。
八十年前、夜叉月はこの地で猛威を振るっていた鬼の一派を封印した。だが今なおその残党が、頭領の復活を夢見て躍起になっている。
「そろそろ引き渡してはくれないか。あの童を」
奴らの狙いは―――真尋。
夜叉月は返答の代わりに、童子切を引き抜いた。切っ先を真っ直ぐ目の前の鬼へ向ける。 鬼は不敵に口角を上げ、不気味なほど美しく笑った。
「かつての冷徹な刀神とは思えないな。たったひとりの人間に寄り添うなど。何年か前に差し出されたあの女……満と言ったか?あの女との約束でも守っているのか?律儀なことだ」
「知ったような口ぶりだな」
「お前とあの童を狙い続けている俺達が知らないとでも?」
……さぁ。なぜだろうな。
こんな鬼といちいち言葉を交わすなど時間の無駄だ。こいつらはどういうわけか次から次へと湧いて出る。八十年も前にほとんどの奴らを一網打尽にしたというのに。
誰かが手を引いているのか。それとも封印の結界に抜け道でも存在するというのか?
夜叉月はありもしない仮説を浮かべて、心の内でせせら笑う。
そんなことがあれば、この八十年で夜叉月が気づかぬはずがない。それに小物の鬼が出られる結界で、頭領であるあの羅刹が出られぬなどありえない。
真実は分からないが、手間をかけて調べてやるほどのことではないと結論づけた。
夜叉月の使命は、何もこの地域に限ったことではなかった。護法善神として法に背く気配があれば、各地を飛び回り叩き斬っていく。こんな小物の鬼を叩き潰すためだけに、こんなところに留まっていていい実力ではない。
『お前ほどの護法神がいつまでそんなところで油を売っている!手が足りんのだ!溜まった務めをさっさと片付けろ!!』
夜叉月は、神使いの荒い不動明王の怒号が脳裏に響く気がした。このままでは次には迦楼羅炎の熱風が飛んできかねない。
夜叉月は軽く息を吐き出して、鬼を見据えた。
「悪いが、死にゆくお前に割いてやる時間はない」
「どうだかな」
夜叉月は軽やかに躍動し、宙で回転して鬼の背後へと回り込む。鬼は袖を翻し振り向くと、両手を重ねてその掌で刃を受け止めた!
キィィン―――!!
素手とは思えぬ鋭い高音が空間に反響する。
「傷が出来ているぞ」
「ふっ……お優しいことだな。心配でもしてくれているのか」
刃が肉を裁ち、鬼の掌から血が滴る。その血は刃を伝い、赤黒い雫となって落ちていく。
夜叉月は手首ごと落とす勢いで斬り込んだが、鬼の手には強力な術が施されているのだろう。実力は、なかなかなものだ。
「これだな。あの方を斬った忌々しい刀め……」
鬼は自分の傷も顧みず、童子切の刃を握り締めた!へし折らんばかりにぎりぎりと締め上げていく。
頭領を討ち落としたこの刀への怨嗟で、鬼の目はつり上がり、髪が不気味に逆だった。
「早く渡せ。あの童子を……!早くあのお方の封印を―――」
「ふっ、儚い夢だな」
夜叉月の冷ややかな挑発に、鬼は見る見るうちに目を血走らせ、美しい顔を歪ませていく。だが夜叉月は片方の口角を上げ、さらに追い打ちをかける。
「お前たちの崇拝する酒呑童子は、私が存在する限り、一生あの山で眠り続けるさ」
ついに鬼は怒りに任せ、その鬼気を爆発させた。




