第三十章 新たな年の幕開けと闇の足音 【後編】
「痛っ……」
「絢!大丈夫か?!」
絢の手を取って確認すると、指先の爪が割れ、僅かに血が滲んでいる。
「すまない」
「お、驚いただけです。大したことはありません」
夜叉月は童子切を鞘ごと腰から抜き取り、細めた黒曜石の瞳で刀身を冷たく睨みつけた。
「出てこい、真尋」
鞘に巻き付いた雁字搦めの鎖から、不穏な光の粒子が立ち上り、目の前に童子の輪郭を結んでいく。
十歳ほどの背丈となって現れた光の真尋は、いつもより大人び、その佇まいには無邪気さなど微塵も感じられなかった。
ゆっくりと瞼が開かれる。その色は普段の温かな琥珀色ではなく―――禍々しく燃える赤だった。
「真尋……?」
「絢、近づくな」
異変を感じて一歩近づいた絢を、夜叉月は袖で素早く遮った。彼女の腰を抱き、後ろに飛んで真尋と距離を取ってから、さらに絢を自分の背後にやる。
「夜叉月……真尋に声が、届きません」
「あぁ……きっと別の誰かに唆されているのだろう。心当たりは……ある」
夜叉月は真尋から視線を外さず警戒する。絢と繋いだ手に自然と力が籠る。
「夜叉月様。どいてくれませんか。僕はそこの女―――『清香』に用がある」
「お前の頼みでも、聞いてやるわけにはいかないな」
真尋は、絢を見つめはっきり『清香』だと言う。過去に返っているらしい真尋にとって、目の前の魂は絢ではない。清香なのだ。
張り詰めるような緊迫感に、神経が研ぎ澄まされる。夜叉月はごくりを喉を鳴らし、眼光を鋭くした。
「いいな、お前は。いつでも夜叉月様に守ってもらえて。一番に思われて」
「真尋」
夜叉月の呼びかけには一切応えず、ただ『清香』だけを見つめ、真尋は顔を憎悪に歪めていった。
「本当に……忌々しい女だ」
「……真尋?あなた……」
絢の声に動揺が混じる。
清香に向けられた真尋の恨みの籠った声に、夜叉月の指先から熱が失われていく。
真尋を、止めなければ―――
夜叉月の脳内が猛烈な警鐘を鳴らしている。
「何もかも知りませんって顔をして……呑気なもんだな。すべてお前のせいなのに!」
「真尋、やめろ」
絢に過去を知らせてはならない。今の彼女には関係ない。傷つけるな。
せっかく取り戻した、彼女の笑顔を奪うな。
「僕がこうなったのも、夜叉月様が羅刹になったのも」
「黙れ真尋」
―――やめろ
やっと終わったはずの千年の孤独の闇が、静かに足元から這い上がってくる―――
「この千年の苦しみも……全部お前の―――」
「絢!違うんだ!」
耐えきれなくなって声を張り上げ、夜叉月は絢を振り返った。
きっと自分は縋るような目をしているだろう。
もう今さら―――あなたが約束を忘れていようが構わない。ただあなたを失いたくないだけ。
だからどうか、恐怖に怯えて私から逃げないで―――
「大丈夫です」
夜叉月は息をのんだ。
見上げてくる絢の瞳は凛と澄み、真っ直ぐ夜叉月だけを映していた。強い意志と覚悟を宿した眼差しは、揺らがない。それは迫りくる闇を退け、温かな光で夜叉月を包み込んでいく。
「大丈夫です。私は側にいますから。安心してください。ほら、いつものあなたらしくないですよ」
絢の温かい手が、夜叉月の頬に触れた。目頭が熱くなる。彼女の指先から伝わる熱で夜叉月はゆっくりと冷静さを取り戻していった。
そのとき、ザザ……と不穏な風の音に混じって、ねっとりとした気味の悪い笑い声が響いた。
「くっくっく……実にいい眺めですね」
いつの間にか、真尋の背後の塀の上に新たな人影が浮かび上がっていた。男はそこに腰かけ、長く流した髪と袖を靡かせながら、ゆったりとこちらを見下ろしていた。
「やはりお前か、黒衣。よくも真尋に手を出したな」
「気づくのが随分と遅かったな」
黒衣がやせ細って骨ばった指で、童子切を指した。
「あなたの刀、邪気を吸うだろう?忍ばせておいたんだ。あなたの斬った怨霊たちに術を施してな」
「ちっ、悪趣味な」
黒衣は塀から軽やかに飛び降りると、背後から真尋の肩に手を置き、耳元で囁いた。
「真尋。お前には『あの方』がついているさ。お前の好きなようにしたらいい」
「……あの女に、分からせてやる」
「あぁ、そうしよう。くっくっく」
真尋の瞳の赤が強くなる。
夜叉月は一足で距離を詰め、真尋の肩に置かれていた黒衣の手首を骨が軋む程に締め上げた。
「真尋に触るな」
「触れられないさ。くっくっく……」
確かにその通りで、実体のない真尋に触れてはいないのであろうが、見せつけるように添えた手を夜叉月はへし折ってやりたかった。
真尋は隣にいる夜叉月が見えていないかのように、視線は真っ直ぐ絢だけに向いている。
「思い出させてやる」
童子切が、真尋の気迫に共鳴すし、ガチャリと震え始める。夜叉月は柄を強く押さえ込んだ。
「すべてお前のせいだってことを」
「真尋、やめろ!あれはすべて私が―――」
「もう黙って夜叉月様」
真尋はやっと夜叉月の言葉に反応したが、その赤い瞳は彼を映さない。
過去なんて知らなくていい。今の彼女といられれば、もう十分幸せだ。これ以上望むことなど何も―――
(―――本当に?)
「!!?」
なんだ今のは。心の深淵から湧き上がってくる感情。ずっと忘れていたはずの、この惨めな願望……
(―――あの約束を、覚えていてほしい。この千年の孤独も苦しみも掬い上げてほしい。あなたが忘れてしまっていたらと考えると、私はもう前に進めなくなりそうで―――)
とっくの昔に消えたのではなかったか。もう何百年も前に心の奥深くに沈め、固く蓋をしたはず。だが一度漏れ出てしまえば、それは恐ろしいほど鮮明に―――
「夜叉月様だって、本当はそれを望んでいる……僕には分かる」
望んでいた?……何を?
『―――私が必ず、あなたを見つけるから』
あぁ……そうだ……望んでいた。
あなたがあの約束を覚えていて、私に手を伸ばしてくれることを。
私だけではなく、あなたも私を探し続けてくれていたのだと―――だけど!
「お前も、壊してやる」
「やめろ」
夜叉月は童子切の柄に手をかけ、真尋を制止する。
真尋は振り返り、悲痛に顔を歪めた。
「夜叉月様……またあなたは、僕を斬りますか?」
夜叉月が言葉を失ったほんの一瞬。
真尋が絢へと腕を伸ばした。瞬時に童子切に巻かれていた鎖が激しい音を立てて解かれ、真っ直ぐ絢へと飛び出していく!
夜叉月は鎖を掴み止めようとしたが、実体のない光の鎖は夜叉月の手を空しくすり抜けた。
「絢―――っ!」
地を蹴り、感情の失われた真尋の横を抜けて絢へと駆け出す。
だが夜叉月より速く、鎖は絢の身を拘束し、締め上げた!
「あぁっ……!」
「絢!!」
夜叉月の伸ばした指先が、彼女の肌に触れる直前―――
魂へと繋がった鎖を伝い、千年の過去の記憶が濁流となって脳内へ雪崩れ込んできた。おそらく、絢にも。
目の前の絢の温もりに辿り着けぬまま、夜叉月は底知れぬ記憶の海へと引き摺り込まれていく。
薄れゆく視界の端で、感情を失ったはずの真尋の瞳から、涙が一雫、静かに頬を伝い落ちていた。
第三幕、完結。
次幕は怒涛の過去編です。
夜叉月、真尋、清香の始まりの物語―――




