第三十章 新たな年の幕開けと闇の足音 【中編】
ドドン!!
暖簾をくぐって店に入るなり腹に響くどっしりとした太鼓の音が鳴り響く。
「お二人様、お成りー!!」
再び浅草寺の方に戻り、入ったのは評判の牛鍋屋。
威勢の良い掛け声とともに、店内に充満する甘辛い醤油と炭火の香ばしい匂い。大広間には、新年の参拝帰りと見受けられる客たちが身を寄せ合い、ぐつぐつと煮立つ鉄鍋を囲んで賑やかに盃を交わしていた。
「もうだめ!この匂いはだめです!」
絢が目を輝かせて辺りを見回しながら、夜叉月の袖を引く。待ちきれない思いを愛らしく表現する彼女に、思わず吹き出しそうになる。だがそうしてしまえば、この手が離されてしまうと思い、なんとか耐えた。
「すごい活気ですね!外の静けさが嘘のよう」
通された奥の小座敷は、障子一枚で外の喧騒と隔てられている。腰を下ろすと、彼女はほっと小さく息をついた。
首元を温めていたビードロの襟巻きを解くと、それまで隠れていた彼女の白磁のような首筋があらわになる。夜叉月は見惚れそうになって、目のやり場に困り視線を外した。
絢は襟巻きを丁寧に畳み、座布団の脇に置く。
「これをかけておくといい」
夜叉月は懐から取り出した淡い色の手ぬぐいを手渡すと、絢はにこりと笑って受け取り、膝の上に広げた。
運ばれてきた浅い鉄鍋に、見事なサシの入った牛肉と青ネギ、豆腐が、甘辛い割下の泡の中で煮立っている。
絢が珍しそうに、けれどどこか真剣な眼差しで、鍋の中で色の変わっていく肉を眺めていた。
「ははっ。そんなに穴が開くくらい見られたら、鍋の中身も緊張するさ」
「こんなに美味しそうなものを目の前にしたら、仕方ないでしょう?」
「それもそうだ。さぁ、袖が汚れるといけない。私が取り分けよう」
夜叉月が湯気の中へ身を乗り出し、手際よく小鉢によそって絢の前に置いてやる。
小鉢から立ち上がる湯気に目を細め、「いただきます」と手を合わせた彼女は、大切そうに肉を口元へ運んだ。何気ない所作にさえ品が漂っている。
「……とても美味しいです!お肉が蕩けます!」
無邪気に笑いながら頬を押さえる愛らしい彼女。夜叉月は幸せな心地で自らも肉を口にする。絢が言うように、それはとても美味しかった。
外の寒さでかじかんだ指先が、胸の高揚とともにじんわり温まっていく。
手を繋ぎ、並んで歩く帰り道。行きのように手は引かず、絢の歩幅に合わせてゆっくりと進んだ。
大通りの雑踏が遠のき、夜の静寂に満ちた薄暗い路地。灯りと言えば、ぽつぽつと立つ低いガス灯や、軒下に吊るされた角行灯の優しい光だけだ。
「夜叉月はあのような賑やかな場所は苦手なのでは?」
さっきの店のことだろうか。確かに自分一人では決して入らぬだろう。だが今日行ってみて何一つ不快なことはなかった。
「そうだな。だが……絢といると、どんなところへでも行ってみたくなる。不思議だろ」
「不思議……でしょうか。私も同じですから、よく分かります」
絢は俯き加減で夜叉月を上目遣いで見つめ、照れたように笑った。絢の言葉一つ一つが夜叉月を温かく満たしていく。
夜叉月も柔らかく笑い返した。
「小春に悪いことをしたわ……」
「どのような?」
「今日あの子も一緒に来たがっていたの」
「あぁ……」
夜叉月はあの狐の半妖娘を思い浮かべ、遠い目をした。絢との時間に小春の邪魔が入るなどまっぴらごめんだ。悪いとも思わない。
「だけど今日は……私があなたと二人でいたくて……」
夜叉月はハッとして絢を見る。
「小春は天翔に任せてきちゃいました」
絢は茶目っ気を含んだ表情で笑った。
夕澄はともかく、今日は小春よりも自分を優先してくれたことがたまらなく愛おしかった。
絢がはぁーと白い息を吐く。空に昇っていくそれを追うように見上げ、彼女は目を細めた。その視線は遠く夜空の月を映しているようだ。雲一つ無い澄んだ空に、月と星たちがいつも以上に煌めいていた。
夜空を写して輝く彼女の瞳を見たくて覗き込むと、絢が優しく微笑んだ。
「綺麗ですね」
「そうだな。今日の夜空は格別だ」
「何を言っているんです?月明かりに照らされたあなたの横顔に決まっています」
「……」
夜叉月が驚いて目を見開けば、彼女は「仕返しです」と悪戯っぽく笑ってみせる。未だに慣れない鼓動の高鳴りに、夜叉月は上手く笑い返せない。絢は満足そうに夜叉月の手を引き、上機嫌に鼻歌を口ずさみながら前を歩いた。
「そう言えば、今日は真尋に会えませんでしたね」
最近は絢がいると、真尋は何故か決まって大人しくなる。その代わり楽しげな気配に我慢できずに姿を現していたのだが、今日はそれもない。確かに妙だ。
少し気になって腰の刀に触れてみるが、やはり反応はない。
「今日は声も聞こえませんでした。眠っているのかしら」
「そんなはずは……」
「私も刀に触れてもいいですか?」
「あぁ」
絢の指先が童子切の鞘に触れようとした瞬間―――
バチッ!
鋭い音とともに、絢の手が弾き返された。




