第三十章 新たな年の幕開けと闇の足音 【前編】
一月一日。
神社や寺院はどこもかしこも人で溢れ返っていた。鉄道が開通してからというもの、最近は近場だけでなく、遠方からもこぞって有名どころに参拝客が集まるようになったのだ。
地元民から愛される露草神社も大層な盛況ぶりで、次から次へと人が出入りしている。
絢との約束の時間が近づいて、夜叉月は境内の外の塀に背を預けていた。
いつもの通り刻限より早くに到着していたため、暇を持て余すように簪の雫飾りをつついて待つ。胸の中は、もうすぐ絢に会えるという喜びで躍っていた。
「お待たせしました」
大勢が行き交う喧騒の中、その澄んだ声だけが真っ直ぐに夜叉月の耳に届く。弾かれたように顔を上げ、愛しいその姿が目に入ると自然と目元が綻んでいく。
「今日も私のために?」
「まぁ……そうですね」
「とても美しいです」
絢は気恥ずかしさを隠すように前髪を弄び、ふいと目線を逸らした。
今日の絢は深みのある濃紺の縮緬地に、銀糸で波と笹文様が繊細に刺繍された振袖姿だった。首元には深緑のビロードの襟巻き。唇にひかれた艶のある赤い紅が絢の肌の白さを際立てる。
「寒くはないですか?」
「はい」
夜叉月が聞くと、絢はにこやかに返した。ところが夜叉月はそれだけで終わらせる気はなく―――絢の手を両手で包み込み、見上げてくる瞳を覗き込んで、極上の甘さで再び問う。
「寒くは……ないですか?」
「―――っ!!!もうっ!いつも分かっていてやるんだから!」
そう。分かっている。こうして尋ねれば、絢が頬を染めて可愛らしく抗議してくることを。
久方ぶりに会えたことで、熱を帯びすぎた想いが夜叉月を急き立てた。自覚はあるが制御する気もない。それは絢が笑って受け入れてくれると知っているから。
「絢、行こう」
「今日はどこへ?」
「絢と一緒に見たいものを見て、食べたいものを食べる」
「ふふっ。何ですか?今日はずいぶんとはしゃいでいらっしゃいますね」
「あぁそうだ。どれだけこの日を待ったと思っている」
夜叉月は絢の手を引き人混みを縫うように進む。賑やかな街並みを抜け、歩みを進めた先には夕闇迫る隅田川と吾妻橋。
「夕日と川は幻想的で美しい景色ですけど……」
絢が少しきょとんとした後に、「ふふっ」と小さく噴き出して肩を震わせ始めた。夜叉月は愉快そうに目を細め、絢の言葉の続きを待つ。
「川風がとても、冷たいです!!あははっ!こんな凍えるような日になんてところへ連れてくるんですか!」
腹を抱えるようにして笑い出す絢。面白がる姿が嬉しくて、夜叉月も目元を和ませる。そして得意気に告げた。
「こんな日にこんな寒い場所へ出向いて楽しもうなんて、私たちくらいなものだろう?邪魔者は少ない方がいいからな」
「ふふっ……あなたの思惑がそうなら、成功かもしれませんね」
「あぁ、大成功さ。それに……」
夜叉月が二本の指の背で、絢の頬を滑らせるように撫でる。すると絢は笑いを止めて、驚いたように夜叉月を見上げた。
「どんな場所へ連れて行こうと、私は絢に寒い思いなどさせない」
「……夜叉月、あなたってやっぱり滅茶苦茶な人ね。もうちっとも寒くありません」
術が効いたのだろう。繋いだ手から絢の体温がゆっくりと上がっていくのを感じた。
西日に照らされた鉄橋が、水面に長い影を落とす。そこにはよりそう二つの影も並んでいた。
川上から黒煙を拭き上げる川汽船が滑るように水面を走る。デッキに佇む乗客たちが、こちらに小さく手を振っている。
絢は身を乗り出し、繋いでいない方の腕を大きく振り返した。
「―――綺麗だ」
「えぇ。美しい夕日ですね」
「何を言っている?夕日に照らされたあなたの横顔に決まっている」
夜叉月は当然のように言ってのけると、何度言われても慣れない絢はまた顔を背けてしまった。朱に染まっているであろう頬を、夕日のせいで確認できないのが残念だ。
「…………もう……人たらし」
「そろそろ……そこは『人』ではなく『絢』にしてくれないか?」
「……」
話せば話すほど深みに嵌ると悟ったのか、絢は降参して黙りこんだ。これに関しては、絢に勝ち目が無いのも無理はない。
なにせこちらは千年分だからな、と夜叉月は自分で考えていて可笑しくなってきた。
沈みゆく茜色の光が、隅田川の水面を金色の波へと変えていく。対岸の街並みにぽつぽつとガス灯の灯りが灯り始めた。
「絢、そろそろ夕飯にしよう」
「いいですね!実は忙しくてお昼も食べられていなくて……すごくお腹が空きました」
「それはいけない!」
その時、ふいに強まった川風に、振袖の裾が揺れて、絢が身をよろめかせる。差し伸ばした腕で、夜叉月が後ろから肩を抱くように絢を支えた。
「あ、ありがとうございます」
夜叉月は支えた手を前に回し、絢を引き寄せる。一度だけぎゅっと抱きしめてからゆっくりと彼女を解放した。
「あ、あなたって、本当に……心臓に悪いです」
「ふっ……たまには川風も、心地いいものだな」
「……」
絢はまだ背を向けたまま振り返らない。首元まで愛らしく赤に染まっているのだろうと思うと、その襟巻きを今すぐ取り去ってしまいたい衝動に駆られた。
代わりに夜叉月は、絢の肩に手を置いて屈み、その簪にそっと口づけた。
絢がようやく振り返り、愛らしい澄んだ瞳でこちらを見上げた。
「……?何かした?」
「いいえ、何も」
夜叉月はにこりと微笑むと、再び絢の手を引いて歩き出した。




