第二十九章 あなたに会いたい年末の過ごし方 【前編】
露草神社の境内はいつも通りの落ち着きを払っていた。掃除の行き届いた境内の澄んだ空気が三人を出迎える。銀杏の巨木の間から筋となって差し込む朝日が、辺りを黄金色に照らし出していた。
この時間、境内には夜叉月たちの他に人に気配はない。当然、絢の姿も見当たらないが、きっと社務所で神札の準備でもしているのだろう。
「やっぱおらんか。残念だったな、夜叉月」
元護法神が神社で参拝するなど可笑しな話ではあるが、せっかく来たのだからと天翔に促され、夜叉月もお参りすることにした。
三人は本堂の前に立ち、賽銭を投げ入れる。銭が木箱を叩いて転がっていく。真鍮の大きな鈴から垂れた鈴緒に真尋が手をかけると、夜叉月はその小さな手の上に自分の手を重ねた。
ガランガラン―――
静かな境内に、重厚な鈴の音が響き渡る。
夜叉月は形だけ手を合わせてみたものの、やはり自分がどこぞの神に祈願など、あまりに滑稽でとてもじゃないけどする気にはなれなかった。
隣を見れば、合わせた手に力を込めた真尋が真剣に願い事をしている。その姿に思わず口元が緩んだ。真尋の手前、形だけでもとそのまま目を閉じる。
(まぁ、絢の声くらいは聞きたいものだな)
心の中で呟いて、夜叉月がゆっくり目を開くと―――
「夜叉月ー!」
夜叉月ははっとして顔を上げた。どこまでも清らかで美しい声。あの声を夜叉月が聞き間違えるはずもない。にわかに高鳴る胸の鼓動を感じながら、声の方へ振り返る。
境内に隣接する屋敷の入口に立ち、こちらに手を振る愛しい姿。夜叉月は手を振る代わりに優しい微笑みを返した。
「天翔ー!真尋ー!」
「おぉー!絢ー!久しぶりやんけー」
絢がこちらへ小走りで近づいてくる。その姿を目にするだけで、どこからか白檀が香ってくるようだ。
毎日会えているときの喜びとはまた違う。ほんの少し時間が空くだけで、不思議とどこか切なさを伴った。
「朝早くから、三人でお出かけしていたのね。寒かったでしょう?もし時間があれば、ちょうど甘酒を淹れようと思っていたところなので、飲んでいきませんか?」
「あぁ、頂こう」
真尋と天翔も勢いよく頷いている。
銭湯で温まった体も、やはりこの寒さでだいぶ体温を奪われていた。
夜叉月たちはもとより人間とは感覚が違うため、そこまで苦痛なわけではないが、やはり冷えた身体には温かいものが心地良い。
「よかった。そこが本家の屋敷です。中へどうぞ」
案内する絢の後ろ姿で、今日も蓮の簪が揺れている。夜叉月は自分の帯に差してある簪をちらりと確認し、目を細めた。
(露草神社に祀られている神、か。……侮れないな。……どこかの名ばかりの縁結びの神とは大違いだ)
夜叉月は軽く鼻を鳴らして笑った。
◇
案内された応接間の襖を開けると、そこから別世界のような温かい空気が溢れ出してきた。
「わぁ!夜叉月様!とても温かいです」
鼻先を赤くしていた真尋が嬉しそうに中に飛び込んでいく。
広い部屋の中央にある長火鉢では、敷かれた灰の中で赤々と熾った炭が優しい光を放っていた。さらに奥には厚手の布団を被せた櫓炬燵が鎮座し、その上には蜜柑まで載っている。
「どうぞ、座ってください」
絢に促されると、真尋が我先にと炬燵の布団に足を潜らせた。真尋は布団を胸のあたりまで引き上げ、温もりに顔を綻ばせている。その隣で天翔もだらしなく顔を緩ませた。
「真尋ー、これほんま極楽やな。銭湯の湯と同じくらい気持ちええ」
「す、すごく温かい!」
「絢ー!この蜜柑も食べてええんか?」
「ええ。どうぞ」
絢は長火鉢の前に正座すると、予め準備してあった道具で甘酒を作り始めた。夜叉月は、絢の隣に片膝をついて腰かける。
「炬燵はいいのですか?足先が温まりますよ?」
「私はここがいい」
絢が鈴の鳴るような声でくすっと笑うと、簪の蓮も共鳴するように揺れた。
火鉢の五徳の上に小ぶりの行平鍋が載り、鍋からは薄っすら湯気が立ち上がる。
「近所の酒蔵で分けていただいたの。ここの酒粕で作る甘酒はコクがあって美味しいんです」
絢がしっとりとした酒粕を鍋にほぐし入れた。竹のへらを取り、片手で袖を抑えながら、ダマを潰すように優しく溶かしていく。
夜叉月は穏やかな表情で、絢の横顔をただじっと見つめていた。
「何です?そんなに見られてはやり難いです」
「私のことは気にしなくていい」
夜叉月がそう言えば、頬を少し赤らめた絢が、口を窄めて抗議の目を向けてきた。余りの愛らしさに夜叉月はふっと笑ってしまう。それが気に触ったのか、絢はつんとした表情でまた手元に視線を戻してしまった。
その後も変わらず夜叉月がにこにこと絢を見つめるものだから、最後は絢が先に降参のため息をつく。
「もう……あなたって人は」
今度は絢も可笑しそうに笑って、夜叉月を見つめ返した。
「あと少しで出来上がりますから、大人しく待っていてください」
「はい。仰せのままに」
夜叉月は立てた膝に顎を乗せ、言われた通り音も立てずにじっと待つ。
絢がへらを置いて、仕上げの粗糖を入れる。夜叉月は置かれたへらを手に取って、絢の側へ少しすり寄るように肩を並べると、鍋の中を丁寧にかき混ぜ始めた。
「あいつら、隙あらばすぐいちゃつくもんなー」
背後で天翔が呆れ声で呟くが、夜叉月はいつも通りどこ吹く風だ。絢は真っ赤にした顔をパタパタと手で仰いでいた。
鍋から立ち上がる白い湯気とともに、ふわりと芳醇で甘美な酒の香りが部屋いっぱいに満ちていく。
「そろそろですね」
絢がそう言うと、夜叉月は手を止め、とろりと濃密に仕上がった白い甘酒を湯呑へと注ぎ分けた。
「仕上げです」と、絢が最後に擦ったばかりの生姜をほんの少し落としていく。
「出来ました」
夜叉月が湯呑を乗せたお盆を運ぶと、天翔と真尋が炬燵から顔だけ出した状態で丸まっていた。
「何をしているんだ、お前たちは」
嗜めるような夜叉月の口調に、真尋がすぐさま体勢を正す。
「固いこと言いよってぇ。お前もやってみたら分かる!」
「ふふっ。外は寒かったですからね」
「めっちゃいい匂いやん!!」
天翔は夜叉月の言葉も聞かずにゴロゴロしていたが、甘酒が卓に置かれるなり、ぱっと飛び起きた!
「楽しみに待っとったでー!!いっただっきまーす」
「夜叉月様……いい香りです。湯気、あったかい」
「あぁ、そうだな」
一口含んだ甘酒は、じんわりと身体を芯から温める。生姜の香りが鼻を抜けた。
真尋は勢いよく息を吹きかけ、湯気を散らしながら表面を啜っては、嬉しそうに顔を綻ばせていた。
「絢は、年末はもうずっと忙しいのか?」
「そうですね……本家の方々ほどではありませんけど」
「私にも絢との時間をくれないか?」
夜叉月は少しでも絢の気を引こうと、いじけるような声で伝えた。
「ふふっ……なんだか子どもの様ですね。一日の夕方からで良ければ、少し時間が出来ますよ?」
自分でも可笑しなものだと思う。千年も待ち続けてきたというのに、今はほんの数日離れることすら耐え難い。
「では、その日の残りは私にください。約束です」
「えぇ。約束ですね」
そう言って、絢は夜叉月の帯に差してある簪を小さく指先で弾いた。それから夜叉月を見上げ、小首を傾げるように笑いかける。
夜叉月は見えない矢に射貫かれたかの如く、大きく肩を跳ね上げた。
年が明けるまで、後七日あまり。




