第二十八章 冬の一番風呂とラムネ 【後編】
三人が外へ出る頃には、空はすっかり明るくなっていた。
湯上がりの火照った肌に、冬の早朝の刺さるような冷気が心地良い。
銭湯のすぐ隣の売店の店先に、井戸水に浸された緑色のガラス瓶がいくつも沈んでいた。真尋がその光景に目を見張っている。
「ラムネを一本」
夜叉月が銭を渡すと、店主の老人が木製の押し具を添えて瓶を手渡した。真尋がはっとして夜叉月を見上げる。
「やってみるか?これをこうして押すんだ」
真尋は夜叉月から受け取ったラムネを両手で持ち、両方の親指を押し具に当てて思いっきり押し込んだ!ポンッと乾いた音が響き、ガラス玉が瓶の底へ落ちる。玉がカランと澄んだ音を立てるのと同時に、シュワっと泡が溢れ出し、真尋は慌てて瓶に口をつけた。
「お、美味しい!!」
真尋は瓶を目の高さに持ち上げて、ガラス玉の様子をじっと観察する。
「ハイカラな飲み物やなぁ!な、な、夜叉月!俺にも買うてぇ」
「たかるな」
そう言いながらも、夜叉月は結局もう二本ラムネを買った。
夜叉月も実際に飲むのは初めてだった。瓶を持った手の親指でぽんとガラス玉を弾き、一気に喉を鳴らせば、炭酸の強い刺激と甘酸っぱいレモンの香りが、火照った喉の奥へ真っ直ぐに染み渡っていった。
(これは……なかなかに刺激的だな)
「うっまぁ!何やこれ!うっまぁ!」
ぐびぐびとあっという間に飲み干す勢いの天翔とは対照的に、真尋は大事そうにちびちびと口を付け、まだ半分も減っていない。
「夜叉月様ぁ。このガラス玉って持って帰れるんですか?」
真尋がふとそんな疑問を口にすると、近くで聞いていた店主の老人が苦笑い混じりに首を振った。
「だぁめだ。この瓶は洗い直してまた使うんだからね。玉が欲しけりゃ、瓶を割るしか無いが……そいつをやったら、そこの父ちゃんに雷を落とされるぞ?はっはっはっ」
「―――!!あ、割りません!割りません!」
真尋が手をぶんぶん振って否定する。
「真尋、それが欲しいのか?」
「え!?……い、いえ!そういうわけでは……」
「店主。この一本だけガラス瓶ごと売ってくれないか?」
「や、夜叉月様っ!?」
夜叉月が涼しい顔で言うと、店主はきょとんとして彼を見つめる。よく見ればただならぬ雰囲気の男に、店主は思わず首を縦に振ってしまった。
「ま、まぁどうしてもって言うなら……。ははっ!優しい父ちゃんで良かったな!」
「えっ……あっ……」
「無理を言ってすまないな」
夜叉月は追加の銭を差し出し、自分の空いた瓶を返すとそのまま店を後にした。
「ごちそーさん!」
天翔も夜叉月に続いた。二人は少し歩いたところで、ついてこない真尋を振り返る。
「ほら真尋、おいてくでー!はよ来い」
天翔が声をかけると真尋は慌てて「ご馳走様でした!」と店主に深々とお辞儀した。そして、まだ残っていたラムネの瓶を大切に抱えたまま走り出した。
◇
「ありゃ?夜叉月、そっちは露草の方やないで?お参りは?」
「……今日は、行かない」
「は?絢に会わんの?」
夜叉月は「絢」と聞いてぴたりと動きを止めたが、すぐに不貞腐れた声で呟く。
「……絢は忙しい」
「……は?」
少しの間の後、天翔は夜叉月の表情を確認してどっと笑い出した。
「なんやなんや!いじけ虫か?!可愛ええとこあるやん!お参りに行くだけや!おらんかったらおらんでええやん!いたらラッキーや」
天翔のその様子に夜叉月はだんだんと腹が立ってきた。顔を顰め、天翔への不満を露わにする。
「ちっ……あぁ、お前は小春に会いに行くんだったな」
「え?舌打ち?半分は八つ当たりやろ?夜叉月突然不機嫌やめてやぁ……」
夜叉月は振り返らずに、とにかく露草神社とは別の方向へ当てもなく進もうとしていた。
「夜叉月様?」
「気にすんな、真尋。あいつはこの間夕澄に完敗だったのが相当堪えたらしい」
「……?」
「実はな……」
明治政府の方針とやらで新暦が導入され、正月休みが固定化されると、人間たちはその期間にこぞって神社に参拝するようになった。
伊勢神宮から届いた札―――神宮大麻の配出準備に始まり、煤払い、松迎え、しめ縄の編み替え、夜間参拝用の提灯の準備など、神社はとにかく目まぐるしくやることに追われるらしい。
夜叉月は以前、絢に手伝いを申し出たが、勝手が分からず戸惑っていると、「邪魔だ」と夕澄に一蹴された。
『うちはこれでもお兄ちゃんがいるから、準備は楽な方なんです。夜叉月にも大事なお仕事があるでしょう?気を使わないでください』
夜叉月にとっては絢より大事な用など無い。だから気を使ったわけではないのだが、逆に絢に気を使われてしまった。これが夜叉月には思いのほか刺さったのだ。
なんとも得意気に目を細めた夕澄に、「お前などお呼びではない。なんせこの『お兄ちゃんがいるから』な。分かったか」と追い打ちまでかけられれば、それ以上引き下がることも出来ず。夜叉月は肩を落として住処へ引き返した。
「最強」など名ばかりだと、情けなくも、殊神社の手伝いに関しては、すっかり自信を無くしてしまった。
それ以降、夜叉月はただ時間が流れ、絢の仕事が落ち着くのを待ち続けていたのだった。
「……とまぁ、こんなことがあってな」
「あぁ、あの時の……。そんなに夜叉月様が傷ついていたとは」
「お前って夜叉月と一心同体ちゃうの?」
「外の声は聞こえても、考えていることが読めるわけじゃないです」
「へぇー」
「夕澄とかいう男……いつも夜叉月様に失礼を……斬ってしまいたい」
「……真尋。その可愛い姿で物騒なこと口にするの禁止な」
体裁だけはこそこそとやっているらしいが、盛大に漏れ出る内緒話を、夜叉月は後ろから呆れた顔で聞いていた。
「おい」
「ぎゃぁぁぁぁぁ!」
「わぁぁぁぁぁぁ!」
「いい加減にしろ、お前ら。俺の心を勝手に盛るな」
「何やねん!お前!あっち行っとったんじゃないんかい?!」
「……真尋が離れすぎて進めない」
輪廻の鎖石によって繋がれた夜叉月の魂は、真尋から一定の距離以上離れることが出来ない。いつもなら真尋は鎖石の中にいて離れることもなかったので、夜叉月はすっかりそのことを失念していた。真尋がこの姿では、行先の主導権は夜叉月にはないということだ。
「……はぁ、なるほど。不憫なやっちゃ」
「ちっ」
「夜叉月様。お参り……したいです」
「……お前がか?」
夜叉月は不思議そうに首を傾げながら、その真意を見透かそうと真尋を凝視する。だが、すぐ観念したように大きく息を吐き出した。
「……いいだろう」
そうして三人は露草神社へと歩を進める。
夜叉月はそっと自分の帯に視線を落とし、蓮の簪の先についたガラス玉を一度だけ優しく指先で弾いた。




