第二十八章 冬の一番風呂とラムネ 【中編】
脱衣場の中央には一段高く据えられた番台がある。夜叉月はそこに腰掛ける番頭へ、かちりと音を立てて銭を置く。
「いらっしゃい」
「三人だ」
「外は寒かったでしょう。ゆっくり温まっていってくだせぇ」
夜叉月が、冷たくなった指先で帯を解き、重ね着した羽織や着物を脱いで籠に入れていく。隣で見ていた真尋が、夜叉月の動きを真似るように着物を脱いで、籠に放り込んでいた。
夜叉月は最後に簪を丁寧に着物の間に隠すように挟んだ。
「さぁ入るぞ」
ガラリと滑り戸を開ければ、視界のすべてが濃密な白い蒸気に呑み込まれた。真尋の幼い肌が湯気の熱気に触れ、ぽっと赤みを帯びる。
天窓から、明けてゆく朝の薄桃色の光が一筋差し込み、立ち込める湯気を黄金色に透かしていた。
「真尋、湯船に入る前にこうするんやで!」
「!!」
天翔が木桶掬った湯を、ザバーっと豪快に身体にかけた。「あったけぇ!!」とはしゃぐ天翔の横で、真尋が木桶を手にしたまま目を見開いている。
夜叉月はふっと笑いながら膝をつき、自分の桶で真尋の背から湯をかけてやった。
「わあぁぁ!」
「ははっ。どうだ?熱くはないか?」
真尋が突然降り注いだ熱に、驚きの声を上げた。
夜叉月は目線を合わせ、優しく返事を待つ。
「えっと……えっと」
「良い湯か?」
「はい!いい湯です!」
「ふっ……そうか」
それを聞いて、今度は背を撫でながら夜叉月はもう一度湯をかけてやった。真尋は嬉しそうににっこりと笑う。
「僕もやってみます!」
真尋は自分の桶で頭から湯をかぶった!
「気持ちいい!」
夜叉月も何度か頭から湯をかけて、前に流れた髪を片手で掻き上げていく。水の滴る髪の隙間から覗いた黒耀石が、横目で真尋を優しく捉えた。真尋の笑顔をぼんやり見つめていると、蒸気で目元にまで熱が集まっていくようだ。夜叉月は口角をゆっくりと引き上げた。
「本当だ。気持ちがいいな」
「っ!!や、夜叉月様!!」
「……」
なぜか真尋が頬を赤くして慌て出す。その背後で天翔がげんなりした表情を夜叉月に向けていた。
「おい!夜叉月!親子みたいやな〜思ってほっこり見とったやり取りに、いきなり無駄な色気挟んでくんなや!」
「何を言っているんだ、お前は」
夜叉月は心底呆れた目で天翔を見た。
大湯船にはなみなみと湯が湛えられていた。頭に手ぬぐいを乗せた天翔がさっさと湯に浸かっている。目を瞑ったまま壁を背にして足を伸ばし、「極楽極楽〜」とくつろぐ声が響いた。
夜叉月は持ってきていた組み紐で長い襟足をまとめながら、湯船に足を沈めた。ぴりりと肌を刺すような熱気がつま先から駆け上がる。湯は朝一番の澄み切った熱さを保っていた。
(これは……真尋には熱すぎるかもしれない)
「真尋……」
夜叉月が隣を見れば、真尋は逸る気持ちが抑えられなかったのだろう、すでに両足が浸かっていた。熱さに耐えるように身体を強張らせて固まっている。
「ははっ、真尋慌てるな。すぐに慣れてくるさ」
少し時間が立つと、湯が馴染んだのか、熱さがだいぶましになった。真尋も腰を下ろし、壁際に三人、肩を並べた。
「夜叉月様!気持ちいいです」
「そうだな」
「僕、銭湯好きです!」
「そうか」
「―――ふっ!あっはははは」
やりとり聞いていた天翔が突然笑い出した。真尋が怪訝な目で天翔を見る。
「あぁ、すまんすまん。いやぁ、夜叉月いつの間にか、ほんまただの父ちゃんやん!あの夜叉月がなぁ!変わるもんやなぁ」
「変わってなどいない!夜叉月様を馬鹿にするな!」
真尋がざばっと立ち上がって天翔を睨みつける。
「なんや真尋。俺は褒めとんのや!お前はどうなんや?夜叉月がお前のために人間らしくなるんは嬉しくないんか?」
「何を言っている?夜叉月様が人間なんかと同じ理由がないだろう」
「ちゃうわ。血が通ってるって意味や」
「……?」
真尋は訳が分からないといった表情で天翔を見下ろしている。当の夜叉月は自分の話題だというのにどこ吹く風で、ひとり遠くを眺めながら湯を楽しんでいた。
「俺は羨ましいけどな、お前が」
「……は?」
「俺じゃ駄目やったもん。……ま、こればかりはしゃーないわ。それにしても、お前ら話し方までそっくりやん!あーおかし」
「……」
いつもどこかふざけた様子の天翔の目が一瞬だけ真剣味を帯びるが、すぐに彼自身によって掻き消されてしまった。
立ちすくんでそれ以上何も言わなくなった真尋を、夜叉月は横目でちらりと見やった。
「ほら真尋、折角だ。もう少し浸かれ」
「あ……」
夜叉月にそう言われると、真尋は大人しく、ざぶんともう一度湯船に浸かる。鼻の下まで深く潜り、考え込むようにしてぶくぶくと息を吐き出した。
そんな二人を見て、天翔は再び笑い声を上げた。
「あっははははっ!お前ら、ほんま雰囲気柔らかくなったなぁ。ええことや、ええことや。長く生きてんやから、難しいことばっか考えんで、こうやって楽しまんと損やで」
夜叉月は少し考えるようにじっと天井を仰いでから、ふっと口元を緩め、真尋の頭の上でポンポンと手を弾ませた。
「そうかもしれないな」
真尋がぱっと夜叉月を振り返れば、夜叉月の穏やかな瞳と視線が交差する。
「真尋、やってみたいことはあるのか?」
「え……えと……は、はい!た、たくさん!!」
「ははっ!そうか、いいだろう。全部叶えてやる」
見開いた真尋の大きな瞳が揺れた。真尋は手ぬぐいを天翔の頭からひったくると、自分の顔に押し当てた。
「は?!何やねん!夜叉月の奪えや」
無言でぶんぶんと顔を横に振る真尋を見ながら、天翔と夜叉月が笑い出す。真尋の頭に置いた手を、夜叉月はしばらく優しく弾ませたままでいた。




