第二十八章 冬の一番風呂とラムネ 【前編】
夜叉月はこの日、まだ夜明けとも言えぬ暗がりのうちに外に出た。
凍てつく空気が容赦なく顔や手を刺していく。外に置かれた水の入った桶には薄っすらと氷が張っていた。吐く息が真っ白な靄に変わり、次から次へと空へ上がっていく。
昨日研いだ刀の様子を見に作業場へ向かう。そこは鋼たちが纏う冷気で、より一層冷たく感じられた。
掛けておいた一本の刀を手に取り、すっと眼前に掲げると、刀は背筋を伸ばしたように、切っ先を真っすぐに天井へと向ける。刀身はこの冷気のせいでより鋭さを増したように見えた。
夜叉月は刀身に映る自身の姿を見つめ、ふっと口元を緩めた。
なかなかいい出来だ。
掛けてあった刀をまとめて掴むと、無造作に置かれた座布団にどっしりと胡坐をかいて座る。何本もの刀を順番に確認していると、いつの間にか部屋の隅の暗がりに、ぼんやり現れた光の姿の真尋が、膝を抱えて蹲っていた。
「どうした、真尋」
「……」
真尋は答えない。夜叉月は特に視線を上げることも、作業の手も止めることもなかった。それ以上問わずに、目の前の作業に集中した。だがしばらくして、ようやく真尋が口を開く。
「昨夜は……すみませんでした」
「……」
今度は夜叉月が聞こえていなかったかのように、口を閉ざして作業を続ける。真尋が膝に埋めていた顔を半分だけ上げて、夜叉月を伺うように見た。
「怒っては……いないのですか?」
「……なぜ怒る必要がある」
「だって……僕、また夜叉月様にひどいことを……!」
「ひどく言ったわけではない。お前の言葉はすべて事実だろう」
「……っ!!」
息を詰まらせた真尋が再び膝に顔を埋め、自分を抱きしめるように一層きつく身体を丸めた。
夜叉月はそんな真尋の様子をちらりと視界に収めるだけで、それ以上は気に留めない。普段通りの涼しい目線を、手にしていた刀へそっと戻した。
確かに、このところ真尋の様子はおかしかった。夜中に突然泣き叫ぶのは常だが、最近はそれに加えて取り憑かれたかのように、意識が過去へ戻ってしまうことが度々あった。昨晩もそうだ。
『殺してやる!あの女を……清香を殺してやる!よくもっ……よくも夜叉月様を―――』
『夜叉月様!!どうして!!どうして僕を斬ったの?!あの女のせいに決まってる!あの女のせいだって”あの人”も言っていた!あいつのせいで―――』
『絶対にあの女の元へなんか行かせない』
『痛い!!苦しい!!!夜叉月様ぁぁぁ!!!!』
当時の悲劇をなぞっているのだろう。夜叉月や「清香」への憎悪を露わにし、清香の魂へ向かうため輪廻の鎖石を引きちぎろうと夜通し暴れるのだった。もちろんどれほど暴れたところで鎖が切れることはなく、ただ夜叉月を苦痛に締め上げるばかりだ。
その痛みは夜叉月のような者でなければ今頃正気などとうに失っているだろう。
だからと言って、改めて真尋を責める気など毛頭なかった。
そもそも真尋は怨霊であるし、その中でいったら彼は普段かなり理性的な方だ。今も朝になればこうして埋まって後悔の念に苛まれている。
それにいくら理性を失っていようと、彼の口にする言葉は彼から見た事実に他ならない。そしてそれは、到底幼い子どもが抱えきれるような「事実」であろうはずもなかった。千年経とうが、中身は十にも満たない子どものままだ。千年も前に、この童子の思いを生涯受け止めていくと誓った。本来抱えきれないほどの感情を真尋に抱えさせてしまった自分に、一体今更何が言えようか。
ただ唯一気になるとすれば、真尋の「異常」の始まりが、あの怨霊の一件以来だということ。
心当たりがあるとすれば、真尋に執着しているあの古の羅刹か―――。
夜叉月はもう一度真尋を見た。真尋は蹲ったまま動かない。
「真尋、今日はどこかにでかけてみるか」
そこでようやく真尋は顔を上げた。夜叉月と目が合うと、彼はすぐにふっと逸らして頷いた。そこへ―――
「夜叉月ぃ!出かけようぜー!!」
玄関先から迷惑な男の大声が夜叉月を呼んだ。いつもなら当たり前のように居留守を使って相手にしないが、今朝は出迎えてやることにした。
「まだ暗いうちから何の用だ。非常識め」
「お前に朝早いとか関係あらへんやろ。寒いし、銭湯の一番風呂であったまってから、露草へお参りにでも行こやー」
腕を組んだまま壁に肩を預けていた夜叉月だったが、天翔の言葉を聞き、家の中を振り返った。
「……だそうだ。どうする、真尋?」
「……い、行きます!」
夜叉月の後ろをついてきていた真尋が、控えめに表情を和らげて答えた。その返事を聞くと、夜叉月は支度のためにさっさと廊下を引き返していく。真尋の横を過ぎ去るとき、すれ違い様に夜叉月の黒曜石の瞳が優しく真尋を映した。
「ほらお前も準備だ。突っ立っていないでついてこい」
「は、はい!」
すっかり子供らしい表情に戻った真尋が、夜叉月の後をてててっと追う音が廊下に響いた。
◇
師走半ば。このところ夜叉月は常磐堂へ行っても絢に会えず、暇を持て余していた。年末にかけて神社では何かと準備が忙しいらしく、この期間、店は店主が切り盛りし、絢と夕澄は専ら神事の手伝いにかかりきりらしい。
もともと依頼のあった仕事をする以外は、絢を探し回ってあちらこちら彷徨う日々だったので、絢を見つけてしまった今、彼女に会えない日にすることが見当たらない。
前を見れば、歩くだけで騒がしい男が、今は頭の後ろで手を組んで口笛を吹いている。
(この男も同じようなものなのだろう)
天翔は最近、毎日のように夜叉月の住処を訪ねてきていた。気が向くと相手にしたが、以前の夜叉月にそんな日はほとんどなかった。それなのにここ数日は、「まぁ相手にしてやるか」という気持ちになるのだから不思議なものだ。
三人は手拭いを入れた木桶を手にして、まだ明けぬ朝の通りを歩いている。真尋は特に大事そうに両手で木桶を抱えていた。
「それにしても、俺、真尋の姿見るのすごい久しいわぁ。こんな見た目やったっけ?少し大きくなったんちゃう?」
「そ、そんなはずは……えっと……」
「まぁ、真尋は五つにも七つの姿にもなれるからな」
「そうやったっけ?真尋は銭湯行ったことないんか?」
「えっと……おそらくは……」
真尋はぐいぐいくる天翔に戸惑いを隠せていない。人見知りをする真尋自体珍しいが、それもそのはず。普段の真尋は夜叉月としか会話が出来ないのだから。
真尋が助けを求めるようにいちいち見上げてくるので、夜叉月はなんだか可笑しくなってしまう。
冬の朝はまだ夜の底のように暗い。冴え返る寒さの中、突如街にドンドンと開店の太鼓が響いた。先に見える煙突からは真っ直ぐに白煙が立ち上っている。暖簾が掲げられると、一番風呂を待ちわびた客たちが吸い込まれるように暖簾をくぐっていった。
「ここや、ここやー」
「せ、銭湯!!」
「そうや!遅れを取るなよ、真尋!!」
薪の燃える匂いと湯気が漂う中、真尋はきらきらと目を輝かせて、軒先に吊るされた「ゆ」の文字が浮かぶ行灯を見上げている。
思えば今まで絢を探すばかりで、真尋にはこんな些細な経験一つさせてやれなかったことを今更になって気づかされる。
真尋は以前より随分と笑うようになった。
「さっぶ!早よ入ろや!」
かじかむ手を懐に入れ、天翔がぶるぶると震えながら急ぎ足で暖簾をくぐる。真尋も「遅れを取らない」ように、足早に後に続いた。




