第二十七章 練り羊羹を手に入れるという口実 【後編】
「え?眠ってしまったことですか?あの日は、送っていただきありがとうございました」
絢は外を見つめたまま答える。今、どんな顔をしているのだろうか。
「送る……前のこと。絢が眠ってしまって、別の座敷に運んだんだ」
「……そうでしたか。そんなご迷惑まで……」
「迷惑なわけがない」
(やはり忘れてしまったのだろうか)
「……そう……ですか……」
「……絢?」
段々と消え入りそうになる絢の声。気にさせてしまったかと心配になり、夜叉月は覗き込もうと身を乗り出して、すぐに動きを止めた。
絢の耳が真っ赤に染まっている。夜叉月は固まったまま、二度だけ瞬きをした。胸にじわりと温かいものが広がっていく。座り直し、今度は真っ直ぐ前を見つめ、外を見ている絢に届くように言葉を紡いだ。
「あなたは眠っていただけです。気持ちよさそうに」
「……」
「……今はまだ……それでいい」
「……っ」
そう言って絢を見れば、彼女はもう取り返しがつかないくらい益々朱に染まっていた。夜叉月は思わず笑ってしまいそうになるのを耐え、肘掛けについた手で口元を隠す。その手の下で、夜叉月は幸せを噛み締めて微笑んだ。
◇
「へい、お待ちどう様でございます。赤坂の虎屋で」
車夫が声を張り上げて梶棒を下ろした。真尋がぱちぱちと目を開く。
武家屋敷の面影が残る坂の街、赤坂。
目の前に現れたのは、暖簾を誇らしげに掲げた、重厚な蔵造りの大店。
「着きましたね。お手をどうぞ」
「あ、ありがとうございます」
先に降りた夜叉月が手を差し伸べると、絢の頬はまだほんのり赤いまま、うつむき加減に礼を言う。絢は耳に髪をかけながら目線を泳がせ、夜叉月の手をそっと握り返して人力車を降りた。
そんな姿もまた愛らしい。
暖簾をくぐると、蒸し上がったばかりの小豆の甘く香ばしい匂いと、上等な砂糖の香りが漂っていた。それは日本の伝統と格式の香り。
「夜叉月様!すごく美味しそうな匂いがします!」
「そうだな。真尋、お前も後で食べるだろう?多めに買っていこう」
真尋はぶんぶんと大きく首を縦に振る。真尋と絢は揃って瞳を輝かせていた。
「練り羊羹を二棹」
「へい、毎度ありがとうございます」
夜叉月が声をかけると、番頭は恭しく頭を下げ、手際よく竹皮の包みを手に取った。
さらさらと乾いた音を立てて折られる竹皮の隙間から、漆黒の艶を湛えた羊羹のずっしりとした重みが伝わってくるようだ。仕上げに細い麻縄がかけられ、きゅっと手際よく結び目がつくられる。
両手を反対側の袖に入れて待ちながら、夜叉月がちらりと絢を見る。絢は職人の無駄のない美しい所作を、真剣な眼差しで見つめていた。
「お待たせいたしました」
手渡された包みは見た目以上にずっしり重い。
「さぁ絢、帰ろう」
店を出ると、空は短くなった日がすでに傾いていた。西の空だけぽっと灯籠のような温かい茜色を残している。
自然と夜叉月は絢の手を取って歩き出した。いつの間にか真尋の姿はなく、二人だけの静かな時が流れる。
「だいぶ冷えましたね」
「そうだな。風邪を引くといけない、早く帰ろう」
「……そうですね」
そう言った夜叉月だったが、すぐにぴたりと歩みを止めた。不思議そうに振り返った絢に笑いかける。
「ねぇ、絢。ずっと考えていたのだが……小春にだけ、ずるくはないか?」
「え?」
絢の顔にはわかりやすく「急に何を言い出すの?」と戸惑いの表情が浮かんでいる。夜叉月は、くすっと笑ってから真剣な表情を作った。
「私だってあなたを心配したし、身が千切れそうな思いだったんだ」
「あ……は、はい」
「だから……私にも何かほしい」
「えぇと……な、何か、とは……」
夜叉月の突然のおねだりに絢は小首を傾げる。きょろきょろと着物のあちこちを探すように見てみるが、今すぐあげられそうな物は持っていなかった。絢が困った顔で夜叉月を見上げる。
夜叉月にとっては今日のこの時間だけで十分な褒美だったのだが、敢えての、おねだりだ。
「いや、後でいいんだ」
「私にあげられるものであれば……」
「あぁ、分かっている」
絢はまだ困惑の表情のままだ。そんな絢の戸惑いを置き去りにし、夜叉月は繋いだ手をくいっと引いて、彼女を自分に一歩近づけた。そのままさっと印を結ぶと、二人の袖がふわりと舞い上がる。絢が思わず目を瞑った。
再び目を開けた頃には、格式高い赤坂の街並みから一転、そこはいつもの見慣れた通りであった。ただ、常磐堂の目の前ではなく、その通りからさらに一本曲がった、高い塀が聳える静かな小道。今は人っ子一人いはしない。
「絢」
何が起きたのか訳が分からない様子で辺りを見渡す絢の背に、夜叉月が声をかける。絢が振り返る直前―――
「……っ?!」
夜叉月は絢の首元に顔を埋めるように、後ろから彼女を抱きしめた。絢はぴんと背筋を伸ばして硬直する。
白檀の香りに包まれながら、夜叉月は柔らかく目を細めた。
「……今、もらいました」
「……え、えっ?」
戸惑う絢に満足し、くすくす笑った夜叉月はもう一度だけぎゅっと抱き直してから解放する。そして再び彼女の手を取った。
「……え?」
戸惑う彼女の心を置き去りにしたまま、夜叉月は絢の手を引き、足取り軽く常磐堂へと戻っていく。夜叉月が絢に軽くする術を使っていなければ、何度か躓いていてもおかしくない程、彼女の足取りは覚束なかった。店の目前まで来て、絢は火照った顔をぱたぱたと手で扇ぎ出す。
「おかえり。……って、あ、絢姉ちゃん?!」
「ど、どうしたんだ、絢!?」
「な、何でもないです!ただいま!!!」
常磐堂に戻ると、あからさまに様子の違う絢を見た小春と夕澄が、二人揃って顔を青くして固まった。
逃げるようにして台所に向かう絢。
それから絢が、切り分けた羊羹と茶を乗せた盆を持ってきた。絢がせっせと準備する横で、夕澄と小春がキッと刺すような視線を夜叉月に向ける。
「き、貴様!!絢に何かしただろう?!」
「……さぁ。絢は何も無いと言っていただろう」
この世に絢しか存在していないかのように彼女ばかり見つめていた夜叉月が、くるりと振り返って二人の方へ顔を向ける。無表情の涼しい視線で一瞥した後、夜叉月は一瞬だけ表情を変えた。
「……っ!!!!?」
「このっ!!!貴様!!!」
それは夜叉月にしてはかなり珍しい。勝ち誇ったように片方の口角を上げた見下ろすような笑み!!
小春と夕澄、二人の怒りを散々に煽ったのは言うまでもない。
天翔は、「つまみ食いや!」と言って一足先に口に入れようとしていたが、夜叉月の表情を見て羊羹を皿に落とした。
絢が「え?」と振り返ったときには、夜叉月はすでに優しい視線に戻っており、立ち上がって彼女が残りの皿を並べるのを手伝った。
「何でもないから。心配いらないよ、絢」
「……っ!」
夜叉月が絢の視界を遮るように覗き込み、ぐっと距離が縮まる。絢は先程のおねだりの後遺症も相まって、あっという間に赤面した。
絢の視界の外で、二人からの声にならない怒りの視線がバシバシぶつかってくるのを、夜叉月は背中で感じていた。
絢自身はそれどころではなさそうだ。絢が夜叉月のことでいっぱいいっぱいになる様子を彼は満悦の表情で見つめていた。
「みんな仲が良くてうれしいねぇ」
店主だけが呑気に俯瞰し茶を啜る。




