第二章 水飴と絆 【後編】
兄弟―――慧光と慧喜の足がピタリと止まり、にわかに空気が張り詰める。空気の変化を察知した途端、真尋は姿を消し、刀身の中に戻った。
兄弟が息を殺し、固まった身体で恐る恐る振り返ると、先程声がしたよりも遥かに近く―――鼻先に漆黒の着物が掠めるほどの位置に、夜叉月は立っていた。
腕を組み、逆光を背負う夜叉月の表情は、無とも笑っているとも言い難い。陰を落とすその涼しげな目元は、瞳の中にだけ鋭く青白い光が宿り、逃げ出したくなる程の迫力を帯びていた!
「ぎゃぁぁぁぁぁぁ!!!!」
二人が一斉に声をあげ、ほぼ本能的に距離を取ろうと掌を夜叉月に向けた。夜叉月は軽く地面を蹴ると、人気のない木々を背に、兄弟の望み通り距離を取ってやる。兄弟の手は彼を追うように向きを変え、容赦なく衝撃波がいくつも炸裂した。
夜叉月は首を傾けて涼しい顔でいくつかの攻撃を受け流しつつ、すばやく片手で一本の刀を鞘ごと引き出した。もう片方で人差し指と中指を揃えて立てて整った口元に当てると同時に、刀の鞘でトンッ、と軽く地面を叩いて結界を張る。その瞬間、現し世の人間の意識から、夜叉月と兄弟の気配は跡形もなく消えた。
夜叉月は一切の無駄を省いた動きで、一連の動作を瞬きの間に終えて見せた。
その後かわされた攻撃は、夜叉月の背後、ぎりぎりまで遠くにはられた結界の境界に当たって爆音を鳴らし、一拍遅れて熱風のうなりが返ってくる。が、夜叉月はまるでそよ風を浴びるが如く、涼しい顔を崩さない。
この間、視界のただ中にありながら、水飴屋の男すら何が起きたか理解しておらず、結果、何事も無かったかのように再び水飴を売り出していた。
慧喜は早くも怯んでしまい、慧光の背後に移動する。慧光は慧喜を庇うように一歩前へ出ると、立て続けに攻撃を繰り出した。兄弟はその間も、しっかりと握った水飴を頑なにはなさない。
夜叉月は残りの攻撃も鞘一振りでいとも簡単に弾き返す。
慧喜は、反応もできず、慧光の背後から様子を伺おうと顔を出しかけたところだった。ちょうど跳ね返った攻撃が目にも止まらぬ速さで髪を掠める感覚に、咄嗟に動きを止める。
「慧喜!!!!」
慧光は反射的に慧喜を抱きしめるが、動きは全く追いついていない。慧喜を掠めた攻撃はすぐ後ろの結界の境界にぶつかり轟音とともに爆ぜた。兄弟はその衝撃にバランスを崩し、弾き飛ばされる。
「わぁぁぁ!」
慧喜が爆発の衝撃に叫び声を上げた。
慧光は慧喜を抱きかかえたままくるりと体勢を変え、ダンッ!と音を立てて着地する。そして、慧喜を庇いつつ、すぐさま夜叉月へと向き直った。
夜叉月は、兄弟を見据えたまま、口の片端を挑発的に引き上げ、口元に当てていた二本のしなやかな指を、兄弟に向かって照準を合わせるようにゆっくり伸ばす。
まだ、やるのか?と、でも言うような無言の圧に、慧光の背筋に冷や汗が伝い、ごくりと唾を飲む。
一拍遅れて夜叉月の仕草にギョッとした慧喜が今にも泣き出しそうな声で慧光の袖を掴んで叫んだ。
「慧光、もうだめだよ、逃げようよぉ」
「慧喜、弱気になるな!また明王様に怒られるぞ!」
「だってこれ以上荒らしたら、せっかくの水飴が砂だらけになっちゃうよ!」
慧喜がさらに強く袖を引けば、慧光もはっとして手元のツヤツヤの水飴を思い出し、弾かれたように目を向けた。
そんな二人の様子を黙って傍観していた夜叉月は、しばらくして静かに刀を差し直すと、自然と漏れ出す威圧感を纏い兄弟の方へ悠々と歩み出る。
その気配を敏感に察知した兄弟は身がすくんで、今度こそ動けない。
目線は手元の水飴にくれたまま、感覚は夜叉月へ向けて研ぎ澄まされていた。まるで死の恐怖が間近に迫るようで、慧光は息もできない。慧喜は慧光の袖を掴んでぶるぶる震えていたが、絶望の予兆に力が入らなくなった手がだらりと下がる。
刹那、黒曜石の瞳が微かに細められる。同時に、夜叉月が軽やかに地面を蹴ると、兄弟との距離を一気につめた!
慧光が跳ねるように絶望に満ちた顔を上げ、肺にある限りの力で絶叫しようとしたそのとき―――
慧光の横を疾風が抜けるように漆黒の衣がなびき、すぐ後ろの慧喜の前で跪く。夜叉月の伸ばした手は、慧喜の手から滑り落ちた宝物―――水飴を、地面すれすれのところで捕まえていた!
なびいた袖が地面につく前に、袴をひと払いしながらふわりと立ち上がり、何事も無かったかのような涼しい顔でツヤツヤのままの水飴を慧喜に差し出した。
慧喜は涙を滲ませていた瑠璃色の瞳をパチクリさせながら、水飴と夜叉月を交互に見てから、ゆっくりとそれを受け取った。
「……あ、ありがとう。」
慧光はまだぽかんとして言葉を失っている。
夜叉月はそれ以上構うことなく、背を向け、進みながらもう一度指を口元に立てて結界を解除した。
そして、一度だけ振り返って問う。
「気はすんだか?」
「……」
無言を肯定と受け止め、今度こそ夜叉月はその場を立ち去った。
「ねぇ、慧光。夜叉月って、なんか悪い人じゃないみたい」
「……」
「慧光?」
「……か、かっけえぇぇぇぇぇぇぇ!!!!!」
◇
兄弟と別れ境内を歩き始めると、夜叉月は急に輪廻の鎖に締め上げられる感覚に襲われた。歩を止めて側の壁に手を付く。
いつの間にかまた姿を見せた真尋は、夜叉月の腕にきつく絡みつき、袖に顔を埋めている。
「どうした、真尋?」
「…僕も、水飴、ほしいです」
真尋の声は今にも消え入りそうだった。夜叉月は、その小さな童子の背中にただ黙って目線を添えると、再び来た道を引き返す。
「水飴を一本」
「あぁ、さっきの綺麗な兄ちゃんか!はいよ!水飴一本」
真尋は目を丸くして夜叉月を仰ぎ見る。夜叉月は気にする素振りもなく銭と水飴を交換すると、ようやく真尋へ、ふっと眼差しを向けた。
白くしなやかな夜叉月の指先が、真尋の頭をそっと撫でる。
夜叉月の指先から淡い静銀の光が溶け出し、真尋の半透明な輪郭へとしみ込んでいった。
霊力を分け与えられた真尋の身体が、すうっと密度を増し、陽の光を反射する確かな肉体へと変わっていく。
真尋の頭に置かれた夜叉月の手は、艶やかな髪の上を輪郭に沿って自然と滑り落ちた。
「片腕にぶら下がられるのは、なかなかに重たいものだな」
ふっ、と息を吐き出し、夜叉月の目元が少しだけ緩む。
自身の重みでずり落ちかけた真尋は、自ら飛び降りて顔を上げると、すでに目の前にはツヤツヤの水飴が差し出されていた。
「…ん?」
真尋がそれを眺めるだけでなかなか受け取れずにいるので、夜叉月は首を傾げてしばらく真尋を見つめていた。
真尋が思いつめたように、勢いよく夜叉月を仰ぎ見る。真尋のガラス玉のような琥珀色の瞳が揺れ、溢れ落ちそうに涙がたまる。夜叉月が僅かに目を見開いた瞬間、真尋はしがみ付くように彼の胸に飛び込んだ!
夜叉月は衝撃で後ずさることもなく、しっかりとこの小さな身体を受け止める。腕の中で感じる、確かで暖かな幼子の鼓動。
変わらず熱気を帯びる境内の喧騒が、なぜだろうか、夜叉月にはどこか遠くの出来事のように感じられた。
片手に水飴を持ち、もう一方は真尋の背にそっと添えたまま。真尋のしゃくりあげる声が落ち着くまで、ただ静かにその温もりを受け止め続けていた。
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