第二十六章 卵粥 【前編】
あれから三日間、絢は眠り続けている。夜叉月は絢のそばを離れる気もなく、店主に頼んだところ、自らの部屋を快く貸してくれた。
「露草の隣が本家の住まいでね、私はそこに行くから大丈夫さ。夜叉月君、絢を頼んだよ」
「おい、親父殿!!何を勝手な……」
「ほら、行くよ夕澄」
「なんで俺まで!!!」
「行くよ」
流石は父親だ。あのどうしようもない妹思いの変態を、最後は有無を言わせずに連れて行ってしまった。まぁ、夕澄は決して大人しく行ったわけではなく、未練たらしく嫌味の一つや二つや三つほど吐き捨てていったが。もちろんそんなものは夜叉月にとって痛くも痒くもない。
店主は夜叉月の布団も用意してくれた。しかし眠れるはずもなく、毎晩夜通し絢を見守り、壁を背に刀を抱え込んで座っていた。
朝になれば主人が店に戻ってくるので、挨拶を交わす。店主だけでなく夕澄も様子を見に来ては、代わる代わる絢の看病をした。看病とは言え、皆ただ見守ることしかできない。夕方になって主人が本家の屋敷へ戻っていくまで、夜叉月は絢の部屋を一歩も動かなかった。
「絢。早く目を覚ましてくれないか?あなたがいなかったこの千年、もう、どうやって息をしていたのかさえ分からなくなってしまったんだ……」
絢と自分以外、誰も居なくなった静寂の中で、毎晩夜叉月は一人絢に語りかける。
そして三日目の朝、襖を開けると、そこには上半身を起こして格子窓の外を眺める絢の姿があった。
何故かその光景が現実に思えず、夜叉月は立ち尽くしてしまう。
すぐ後ろに続いていた店主もすぐに部屋の中の異変に気づいたはずだった。店主は夜叉月の背をぽんぽんと優しく叩いた。
「私はみんなに伝えてくるから、君が先に声をかけてやっておくれ」
彼の声は少し掠れている。彼だって今すぐ絢のそばに駆けつけたいはずなのに―――
夜叉月は店主の気遣いにただ頷くことしか出来なかった。呼吸すら忘れてしまいそうな胸の詰まりを覚えながら、かろうじて愛しい名前を呼ぶ。
「……絢」
肩をぴくりと跳ね上げ、絢はゆっくりと振り返る。夜叉月を見るなり、絢は驚いたように目を見開いた。
「……夜叉月……」
「……っ」
―――あぁ、私を呼ぶこの清らかな声は現実だ。
薄桃色の唇が夜叉月の名を紡ぐ。一つ一つの僅かな動きさえ目が離せない。
薄暗い部屋の中で、絢の周りにだけ鮮やかな光が浮かんでいるようだ。澄んだ瞳は夜叉月を映し、一瞬だけ揺らぐ。
夜叉月は今すぐ彼女を抱きしめたいのに、金縛りにあったように動けずにいた。
絢は夜叉月を見つめながら、少し困ったような表情で微笑んだ。
「私は……ずいぶんとあなたを不安にさせてしまったようですね」
「……まったくです」
じわりと目頭が熱くなる。やっと一歩を踏み出した夜叉月は、急激に歩幅を広げ、倒れ込むように絢をきつく抱きしめた。
「苦しいです」と言われたが、夜叉月は一層腕に力を込める。
「……私の方が……苦しかった」
夜叉月が声を絞り出すように伝えれば、絢はそっと背に手を回し、優しくさすってくれた。
◇
「……なんだか、お腹がすきました」
「そうか。少し寝て待っていると良い」
「え?」
何の気なしに発された絢の言葉を聞くやいなや、夜叉月はすっと立ち上がり、慣れた足取りで台所へ向かう。
しばらくして夜叉月が部屋に戻ると、絢は言われた通り布団に横になっていた。夜叉月の気配に気づき、がばっと起き上がった絢は、恥ずかしそうに乱れた髪を整える。
そんな絢を見て夜叉月は愛おしさが込み上げた。
「ははっ。絢、お待たせ」
夜叉月が置いたお盆の上には、小さな土鍋と空の椀、そして匙。絢は夜叉月の手慣れた様子にただただ驚いているようで、ぽかんと口が開いている。視界の端で捉えながら、夜叉月は思わず口元を緩めた。
「……絢、そんなに見つめられるとさすがの私でも緊張してしまうよ」
悪戯っぽく見つめ返すと、思い切り顔を逸らされてしまったので、ついに堪えきれず声を上げて笑った。
絢は下ろした髪を片側で束ね、肩の前に流している。露わになった反対側の耳が真っ赤になっているのがすぐに分かった。しかし、夜叉月は気づかないふりをした。
土鍋の蓋を開けると、とろりと煮込まれた白米の甘い湯気が部屋いっぱいに広がった。
この匂いに抗えなかった絢は、再びこちらを向いて鍋に釘付けになっている。夜叉月は誇らしげに粥を椀によそい、匙を添えて絢に差し出した。
「はい、どうぞ」
「あ、ありがと……え?」
絢は受け取ろうとしたが、夜叉月が椀を離さない。顔を上げた絢と至近距離で目があった。美しい瞳を縁取る長い睫毛さえも艶がかって甘い。夜叉月の黒耀石に熱が集まっていく。
絢が息を呑むと、夜叉月はくすっと笑みをこぼして追い打ちをかけた。
「とても熱いけれど……私が冷ましましょうか?」
「……っ!!!」
絢の顔が一気に朱に染まる。
そこで夜叉月は椀を手離し、口と腹を押さえて笑いを押し殺した。
「やっ、夜叉月!!揶揄わないでくださいってば!!」
「ははっ!すみません……可愛くて、つい」
「そ、その言葉もです!」
「ん?これは本心なので訂正のしようがない」
「もう!本当に人たらし!!」
「それも心外だな。絢にだけだ」
その後も散々甘い言葉を注ぎ込み、彼女が耐えられなくなるまで見つめ、欲しい反応を存分に貰って楽しんだ。この三日間の苦しみを思えば、こんなものでは到底足りないが。
「そ、そろそろ少し冷めたかと!!」
絢は話題を変えるように椀を見る。
貴重な白米をふんだんに使い、仕上げに溶き卵。小さく叩いた梅肉まで添えられていた。
「わぁ……豪華!」
「絢に作るものだから、当然だ。召し上がれ」
匙で掬った粥をふーふーと冷まし、口に運ぶ。絢は大きく目を開き、夜叉月を見上げて笑った。
「すごく美味しい!!」
「そうか……よかった」
あなたがその瞳に私を映してくれている。あなたが私の名前を呼んでくれる。あなたが私に笑いかけてくれる。もうそれだけで―――
千年夢見て焦がれたすべてが、今は夜叉月の手の届くところにあった。
この幸せな日々を夜叉月はもう二度と手放せない。―――手放しはしない。




