第二十五章 古の羅刹にその身を捧げた男 【後編】
「任されたで」
すでに去ってしまった夜叉月の背中へ声を投げ、天翔は下ろした大太刀をぐっと握り直す。
女に取り憑いた鬼は、新たな鬼火を出そうと焦っていたが、慌てて生み出した数匹も、他と同様に常磐堂へと吸い込まれていった。「あの方の加護」も「呪いの鬼火」も失った鬼が、がたがたと震え始める。
天翔は青ざめる女に向き合い、わずかに眉尻を下げる。中の鬼ではなく、その身体の主である女の瞳をしっかりと見据え、静かに声をかけた。
「―――姉ちゃん、堪忍な」
天翔は大太刀を振り上げながら結界を張り、周囲の人間達の視界から女ごと姿を消す。そのまま、真っ暗な結界の中で刃を振り下ろした。ざんっという鈍い感触を伴った音が、天翔の耳と手に重く残って、しばらく消えなかった。
◇
物理的な壁など何の障害も受けない鬼火は、次々と常磐堂の壁や屋根を突き抜け、最短距離で侵入していく。
夜叉月が絢の部屋へ姿を現すと、布団の上に起き上がっている絢の姿があった。
絢は両膝を付いたまま、腕を力なく垂らし、虚ろに目を開いている。鬼火がザザザザッと音を立て、怒涛の勢いで絢の身体に吸い込まれていく。
「絢!!」
悲痛に顔を歪めた夜叉月は、縋り付くように絢を正面から抱きしめた。そうなれば、それ以上鬼火は近づけるはずもなく、夜叉月の背中に激突しては跳ね返されていく。夜叉月の黒曜石が青銀に輝くと、部屋にいた無数の鬼火はすべて、一瞬にして暗黒の炎の中に燃えて消えた。だが、次から次へと押し寄せる鬼火はまだ絶えない。再び暗黒の炎が部屋を包む。
「絢……絢!」
抱きしめながら夜叉月の視界に入った絢の首筋の紋は、最初よりも遥かに濃く刻み込まれていた。
いくら呼びかけても、虚ろな絢はこたえない。
「絢!!!」
しばらくすると、鬼火の侵入がぴたりと止まった。天翔があの鬼を斬ったのだろう。
同時に、絢の瞳がふっと閉じられ、身体中の力ががくりと抜けた。
その重みを感じ、夜叉月は顔面を蒼白にする。彼女の身体に回した手にさらに力を込めて掻き抱いた。
「……絢っ」
ぐっと瞳を閉じ、呼吸すら止めるように全身に力を込め、上がりきった心拍と噴き出しそうになる汗を抑え込もうとした。静寂のはずの空間で、夜叉月の体内だけが爆発しそうに煩く警鐘を鳴らし続けている。
しばらくじっと耐えていると、耳元から愛しい彼女の穏やかな寝息が聞こえてきた。夜叉月はぱっと目を開いて、ようやく空気を手に入れたかのように大きく息を吸いこむ。
はぁ……はぁ……
乱れた息を整えようと、触れ合う手や頬から伝わる温もりで、絢の生を確かめた。全身の毛が逆立つような恐ろしい感覚が、少しずつ去っていく。
ようやく安堵した夜叉月が、彼女の頭と背を優しく支えながら、そっと横たえた。首もとを確認すると、紋は先程よりずっと薄くなっている。
はぁーと、深く息を吐き、夜叉月は絢の横に腰を下ろした。立てた膝に顔を埋め、脱力する。少ししてから、夜叉月は頭を膝に預けたまま、絢へと顔を傾けた。
「あなたは……また無茶をして……無茶をしたいなら、せめて私がついているときにしてほしいものだ」
夜叉月は目元を歪ませたまま、指の背で絢の頬を撫でた。滑らかな肌は温かく、血色が戻っている。伏せられた瞼を見つめ「早く開いて自分を映せ」と、切に願った。
◇
夜叉月は周囲の気配を注意深く探る。店内に店主と絢以外何者もいないことを確認し、再び外へ出た。そこは暗がりが広がっていた。分厚い雲が月をも隠し、辺りを深い闇へと沈めていた。
「くっくっく」
暗闇に気味な笑い声だけが響いている。唯一の光は蔵の前に置かれた行灯の灯りだけだ。頼りない光は、夜叉月の足元にも届いては来ない。
闇の中で影が揺れる。夜叉月が目を凝らすと、黒衣が先ほどと同じ塀の上に腰かけていた。やせ細った青白い顔に不穏な笑みを浮かべ、夜叉月を見下ろしている。
「まだいたのか」
「あなたに用があると言っただろう。だから終わるまで待っていた」
殺気がない分、かえって異様さが際立つ。ただでさえ冷え込む夜の空気が、さらに冷気を増していくようだ。
黒衣は徐に腕を上げ、夜叉月を指差した。
「あの方は、あなたのことを気に入っている。そしてそれ以上に……あなたの中に巣食うその怨霊のことも」
「……」
夜叉月は眉根を少し寄せる。童子切がガチャリと鳴り、キーンと耳鳴りのような音が静寂に響いた。
「お前は……まさか」
「その怨霊だけを連れ出せればいいのだが……。それはあなたと一心同体。ならば、あなたが私と一緒に来てはくれないか?」
「断る」
「だよな……困った」
わざとらしくため息をつき、黒衣は頭を振ってみせる。そしてやたらと鋭い歯を覗かせ、にやりと笑った。
「でもまぁ今日は、あなたとその怨霊を見つけ出しただけでも、あの方は喜んでくれるはず」
「なら帰って、さっさとお前の主人に伝えろ。ついでに俺からの言伝も―――『真尋はやらん。お前はその山で一生眠っていろ』とな」
夜叉月も口角を片方上げ、不敵な笑みで吐き捨て、黒曜石に妖しく光を浮かばせる。
黒衣の顔から笑みが消えた。
「私が必ず、あの方のために―――」
最後にその言葉を残し、黒衣は闇の奥へと消えていった。




