第二十五章 古の羅刹にその身を捧げた男 【中編】
夜叉月が振り返ると、先程まで片方だけ空いていた観音開きの戸が、今はどちらも開け放たれていた。左右に視線を走らせると、蔵のすぐ脇の塀の上に、足を組んで腰掛ける男がいた。この男もまた青白い顔で、やせ細っている。
(こいつも鬼か。どいつもこいつも顔色が悪い)
「あぁ、さっきの言葉はあなたに言ったわけではないんだ。失礼。くっくっく。そこの馬鹿な鬼に言ったのさ。あぁ、そこの役立たずの鬼神に言ったわけでもないよ」
「おい!流れ弾!俺を巻き込むなや!」
「あぁ、聞こえていたか、失礼失礼。くっくっく」
塀の男は悪意があるのかないのか、喚く天翔を見て笑っている。天翔は大太刀を振り回しながら、ちょこまか飛び回る怨霊たちを追って行ってしまった。
男は組んだ足に肘をつき、その手に顎を乗せて夜叉月に向き直る。高みの見物とばかりに、こちらを見下ろしている。
「私はただ、相手の力も計れない小物が、あなたのような羅刹を侮るから、忠告しただけだ」
「尊敬されているようには見えないな」
夜叉月はその塀の男は視界の端で捉えるだけで大して相手にはせず、もっぱら腕の中の男をいたぶることに集中した。
夕澄も天翔同様、あちこちに飛び出してしまった怨霊を呪符で追いかけ回していて、今は新たな鬼どころではなさそうだ。
「おい夜叉月!さっさと絢を助けろ!」
(……言われなくても)
夜叉月が結界を破り切り、首を刎ねようとしたその瞬間、その男の身体がぐらりと崩れた。抜け殻となったその器は、もはやただの死体だ。夜叉月は冷めた目つきで、その屍を捨て、塀の男を見上げた。
「誰だか知らないが……そいつをよこせ。俺はそいつに用がある」
「私は、黒衣。こんなやつ、いくらでもくれてやるから好きにしたらいい。くっくっく」
死体から抜けた鬼の魂は鬼火の姿で、新たに現れた男―――黒衣の背後に隠れた。しかし黒衣の非情な言葉にびくりと身体を震わせる。
「黒衣……知らないな。お前も鬼に乗っ取られた人間のようだが……」
「くっくっく。よしてくれ。あなたの価値観で判断するなよ。私は乗っ取られたんじゃない。喜んで差し出しているのさ。あの方の力になれるなら、いくらでも」
「また『あの方』か。ずいぶんと人気があるようだ」
実際「鬼」と言っても、昔話にあるような象徴の角を持つ者はそんなに多くない。鬼は単に鬼の「気」を持つ存在である。
鬼の気を持つ者は大抵、極めて優れた能力を持っているか、恐ろしい容貌をしているか、あるいは人を惑わすほどに美麗である。
いずれも人間にとっては恐怖と嫉妬の対象であり、それゆえ鬼は忌み嫌われてきた。いつしか互いに棲み分けるようになり、人間の前に姿を現すことはほとんどなくなった。たまに気を伏せて、人間に紛れて生きていく者もいる。
したがって天翔然り、鬼だからといって必ずしも悪とは限らない。その点、「羅刹」とは主に護法神たちの間で、特に業の深い悪鬼がそう呼ばれている。
黒衣という男はどうやら鬼に自身の身体を使わせることでその能力を得ているが、思考まで支配されているわけではないらしい。死体を器にしていたそこの鬼とは、身なりも違えば格も違うようだ。
何にせよ、夜叉月が用のあるのはこの黒衣ではなく、絢に呪いをかけたであろう、その鬼だ。
夜叉月が鋭く睨みつけると、その鬼火は一目散に逃げ出した!
夜叉月はすぐに追いかけようと、地を蹴る。だが一瞬、足元が地面に縫い付けられたかのように止まった。
「好きにしろと言わなかったか?」
夜叉月は振り返らずに瞳の端で黒衣を睨んだ。すぐに夜叉月の足は自由になった。
「あぁ、悪い。くっくっくっ……あなたはあいつに用があるのだろうが、私はあなたに用があってね」
「俺にはない。こちらは忙しいんだ。後にしろ」
「どんな用だか聞かないのか?」
「興味はない」
その時―――
「きゃあぁぁぁぁぁぁ」
通りの方で、女の甲高い叫び声が響いた。夜叉月が今度こそ通りへ出ると、呪いの噂を聞きつけた野次馬がまだ何人も残っていた。その中の一人、手ぬぐいを頭に巻いた女が蹲っている。さっきの悲鳴の主だろう。
怨霊たちをあらかた始末し終えた天翔と夕澄も、通りに出てきた。
女は急に立ち上がり振り返ると、にやりと笑って両手を広げた。その手の間に再びずらりと鬼火が並んぶ!
天翔がギョッとした声を上げた。
「またそれか!!」
先程の男の死体を器にしていた時よりも素早い動きで、女はその鬼火を放った。
通りにいる人々はもちろん鬼火が見えるはずもなく、女の奇妙な行動に怪訝な顔をするばかりで、誰ひとりとして逃げようとしない。
(まずいな、人が多すぎる)
考えるより先に、夜叉月も天翔も鬼火に向かって飛び出した。
夕澄は女の最も近くにいた四人へ呪符を投げつける。それぞれの背にぴとっとくっついた呪符は、彼らに飛んでいった鬼火を身体の表面で弾き飛ばした。鬼火はすぐさま的を変え走り出す。
三人総出で迎撃していたところに、あろうことか女の身体を乗っ取った鬼は再び腕を伸ばして手を広げた。
「あいつ、あれいくつ持っとんねん!?」
大太刀をブンブンと振り回し、ようやく五匹倒した天翔が叫ぶ。大太刀で小さな鬼火を叩き切る姿は、傍から見れば天翔のほうが完全に「悪」だった。
夜叉月自身、本来なら絢さえ救えれば他の人間に呪いが移ろうが大した問題ではない。最終的にあの鬼を討ち取れればよく、そのための犠牲はつきものだ。
少なくとも護法善神であった頃は迷わずそうしていた。冷徹に、厳格に、法に従って悪を断つ。くだらない情などで法が脅かされることなど、あってはならない―――それが護法善神としての絶対の務め。
だが、絢はどうだろうか。きっと、ここには絢が大事にしてきた馴染みの人間もいるだろう。呪いが降り掛かかり、取り返しのつかないことになれば―――
(絢を悲しませるような真似は……したくはない)
そう思うと、むやみやたらに怨霊が呪いをばらまくのを放ってはおけなかった。しかしこのままでは一向にあの小賢しい鬼を討ち取れない。どうしたものか。
刀を鮮やかに振りながら、夜叉月が思考を巡らせていると、鬼火たちの動きがピタリと止まった。
あの女を見れば、再び呪いの鬼火を量産しようと生み出した直後だったが、それらも一つ残らず動かなくなっている。女はぎりぎりと奥歯を噛み締め、霊力を発散させているようだが、それでも鬼火は微動だにしない。
「ぐあぁっ!!またあの女め!!!!!」
呪いの鬼火を作っていた女はついに耐えかねたように目を吊り上げ、地団駄を踏んで叫んだ。
やがて、あたりに漂っていた鬼火が一斉に小刻みに震え始める。次の瞬間、弾かれたように一斉に動き出し、吸い込まれるようにして一方向へと飛んでいった。
「―――っ!?」
鬼火が真っ直ぐ向かったのは―――常磐堂の中だった!
(まさか―――)
「天翔、その鬼を討て!!!」
夜叉月は珍しく大声を上げ、それだけ言い残すと返事も待たずに身を翻し、あっという間に鬼火の行く手を追ってその場から姿を消した。




