第二十四章 怨霊騒ぎ 【後編】
夜叉月、天翔、夕澄が円卓を囲んで座していた。「自分ではあまり力になれないから」と主人が絢の眠る部屋に戻っていくと、夕澄は低く落ち着かない声で昨晩の状況を話し始める。
「昨晩声をかけたが起きなかった。熱もなく魘されるでもなく、呼吸もあったが、様子がおかしくて医者を呼んだんだ。朝まで様子を見ようとしたが、今朝になってあの痣が出ていた。いくつか術を試みたが、効かなかった」
「俺が行ったときにも、結界は機能してたで?そこらの怨霊じゃ、外から入り込めんはずやけどな。大騒ぎになっとったからすぐに夜叉月んとこ飛んでいったわ」
「……こいつを呼ぶ必要があったかは、疑問だがな」
「もぉー夕澄兄さん!協力者は多い方がええやろ?夜叉月は頼りになるで!仲良うせぇ」
夕澄の小言など、今の夜叉月の耳には全く入りはしなかった。胡座をかいて腕を組み、ずっと顔を伏せている。垂れた前髪に隠れ、端からは誰も夜叉月の表情は読み取れない。
「あの呪いの痣が出てからは、何日だ」
このままでは命があと何日で尽きるのか、という意味だったが、敢えてその言葉を口にはしなかった。
「……大抵、痣と同時に気が触れる。そのまま人を殺すか自分自身を殺すか……どちらにせよ、聞いた話の中では、持って二、三日ってところだな。ただ、絢は眠るばかりで状況が違う。全くわからん」
夕澄の手に握られた呪符は、相当強く握りしめられていたのか、もはや使い物にならなそうなくらい無惨に歪んでいた。
「なら今日、蹴りを付ける」
「何を手がかりに!」
焦りを押し殺し、ただ冷徹に言い放つ夜叉月。夕澄にはその様子が腹立たしかったのだろう。「適当なことを言うな」と、夜叉月に食ってかかろうと立ち上がりかけたところで―――
「―――壺だ。どう考えてもそうだろう。外からは入れない結界内に、結界が張られる直前に入り込んだもの」
「――!!」
そう断言して夜叉月が湯呑に手を伸ばす。
ガチャンッ!
指先で触れた瞬間、湯呑は見事に粉砕してしまった!!卓が一瞬静まり返る。
「……あぁ、悪い」
夜叉月が僅かに顔を上げる。夜叉月は黒曜石に凍てついた殺意を宿し、こめかみに青筋を浮かべた。
夜叉月がすっと立ち上がる。その姿をぎょっとした顔で天翔が見上げている。
「や、夜叉月、ちょっと落ち着かへん?」
「お前らの誰よりも冷静だ。さっさと壺の在り処へ案内しろ」
夕澄も目を開いて驚きを隠せていない。だが敢えて何も言葉にはせず、静かに立ち上がると、二人を案内した。
(誰の、何に手を出したのか、思い知らせてやる―――)
一番後ろで踏みしめる夜叉月の足音は罪人を地獄へと導く羅刹の音がした。
三人は店の裏の戸から庭に出る。案内されたのは蔵だった。
常磐堂の店頭に並ぶ品は、やはり丁寧にお祓いを受けてから出すことになっており、この壺もその儀式を終えるまで、蔵に保管されていたという。
蔵の前に着くと、そこには蹲っている男がいた。小柄な背中が小刻みに震えている。
「ん?さっきの医者のおっちゃんやんけ……どうした?具合でも……」
前を歩いていた天翔が近づこうとしたが、ぴたりと止まる。夜叉月は庭に一歩踏み出した瞬間から、すでに刀の柄に手をかけていた。
「……遅かったか。悪かったな、おっちゃん」
医者の首筋には、絢と同じ、蛇の這ったような痣があった。よく見ると身体が不自然に曲がり始めている。
「この様子じゃ、二、三日も持たないな」
二、三日この姿で暴れまわることはできるだろうが、もはや人間ではいられない。頭も身体も侵食され、早ければ数時間後には人ではなくなる。呪いの元凶を断ったとしても、人間でなくなった者が迎えるのは、ただの死だ。
夜叉月は眉根を寄せた。
天翔が背の大太刀をゆっくりと引き抜く。
振り返った医者はその刀を見て絶叫し、尻もちを付いた。もう人間らしい声も出せず、野生の獣のように叫び狂っている。彼の目に浮かぶのは殺気ではなく、恐怖―――
太刀を振り上げた天翔は、一瞬躊躇った。その瞬きの間で彼の横を疾風が駆け抜けた!
ザン!!!
男の首と胴体が泣き別れ、支えを失った身体がばっさりと崩れ落ちる。
天翔は刀を振り上げたまま、呆然と目の前の光景を眺めていた。
切断面から鮮血が流れ出し、同時に黒い靄が上がり始める。身体を乗っ取っていた怨霊もろとも斬られ消滅しかけているのだろう。
「仕上げてくれ」
「……お、おう」
夜叉月が冷ややかに言いながら童子切についた血を払う。天翔が指を揃えてかざすと、黒い靄は眩い光となって霧散した。
夜叉月はそれを横目で確認する。
「天翔、すまないな」
「……ええねん。俺こそ、すまん。……どうして俺は未だに躊躇してまうんやろ。護法神が聞いて呆れるわ」
まだ釈然としない様子の天翔に、夜叉月が告げる。
「……怨霊があの身体を拠り所とした時点で、あの男は人ではなくなった。裁きの対象が人だろうが怨霊だろうが、こちらが迷って無駄に恐怖を与えるべきではない」
「……せやな」
「それに……あれが絢に呪いをかけた怨霊かも知れない以上、俺には躊躇っている時間などなかった」
「……」
自分の手を静かに見つめる天翔の背に、いつもの軽快さはない。
「……だが、お前は、あれでいい」
「……っ!」
「それがお前だろう。何を考え込んでいる。別人にでもなりたいのか」
「は、はぁ?!」
「変わりたいならいつでも手を貸してやる。その騒がしい性格が少しはマシになるようにな」
「何言っとんねん!俺が大人しくなったら個性死んでまうやろ」
「……だろうな」
天翔はいつもの騒がしさを少しだけ取り戻す。勢いよくこちら振り返った天翔が、まだ何か言おうと口を開いたまま、ふと動きを止めた。
「なんや……お前、俺にもそんな顔するようになったんか?」
「どんな顔だ」
「お前こそ変わったやん。個性は何故か死んどらんけど」
天翔はもう一度見つめた手で、目を塞ぎながら空を仰ぐ。
「……ははっ!もう……夜叉月、お前、本当に羅刹か?俺にはお前があの時のまま、いやあの時以上に最高に格好良い『護法善神』にしか見えんのや」
夜叉月は少しだけ目を見開いて、すぐに和らげた。
「怨霊の魂一つ浄化できない護法善神がいるか」
「んなもん、他の護法神たちのための、ただのハンデやわ」
「ふっ……なんだそれは」
夜叉月が笑うと、天翔は覆っていた手をすぐさま退かして夜叉月を凝視した。いつになく真剣な眼差しだ。
「……なんだ」
「いや……俺にこんな表情むける夜叉月見られんの、次はまた千年後やと思ってな。見とかなもったいない」
「……」
夜叉月はさっさと表情を元に戻した。
「おい、そろそろ集中しろよ」
夕澄が蔵の扉から目を離さずに、二人を諌める。観音開きの分厚い土の引き戸から、重々しい気配が漏れ出ていた。
ギィィ……
不穏に軋む音と共に、ひとりでに片方の戸が開く。蔵の中は漆黒で、わずかな光すらない。
中からヒタヒタと冷たい音を立てて近づいてくる黒い人影。
「いかにもっちゅう登場やな」
やがて外の光の中に不気味に姿を現したのは、青白い顔をして痩せ細った男。身なりもぼろぼろのその男は、歪んだ猫背でゆらりと立ち尽くす。
ゆっくりと目線をあげ、髪の隙間から覗かせた片目は赤く、恍惚として夜叉月を捉えた。
「……あぁ、いたいた。この羅刹だ。すぐに黒衣様にお伝えせねば」




