第二十四章 怨霊騒ぎ 【前編】
浅草寺での一戦から数日経ったある日のこと。夜叉月は再び常磐堂を訪ねてきていた。
今朝は、夜叉月の心を映したかのような曇り空だった。分厚い雲が、辺りにうっすら影を落としている。
その日戸の前で出迎えたのは夕澄だった。
「……」
「絢ならまだ伏せっている。まぁ、この間あれだけの無茶をさせられたらな」
夕澄は扇子で口元を隠し、腕を組んで戸の枠に肩をもたれかからせ、入口を塞ぐように立っていた。どうやら中に入れるつもりはないらしい。眉間に深々と皺を寄せ「用が済んだらさっさと帰れ」と顔に書いてある。
(絢が……まだ伏せっている?)
夜叉月は思わず肩を落とし、愕然とした。
確かに絢は疲弊していた。だからこそあの日、数日休むように言い聞かせ、店主にも念を押して常磐堂を出たはずだ。でもあれから七日は経っている。まだ伏せっているとはどういうことだ。何か病にでもかかったか。
「会わせてくれないか?」
「今は眠っている。看病の手も足りている。お前に会えば無理をするとわからないか?」
「……。状態は?」
「……はぁ。起きると調子が良さそうに見えるんだが、店に出ているうちに急に衰弱したように顔色を悪くして眠りだす。その繰り返しだ」
あの数の精霊たちに声を届けるのは、かなりの霊力を使っただろうから、体力の回復に時間を要するのもなんら不思議ではないが……それにしても。
(回復しては衰弱する……?)
最後に会った時にそんな違和感を覚えた記憶はない。会えないことには、触れて確認することも出来ない。となれば、いっそ夕澄を気絶させてでも―――。
「……なんだ、その目は」
「……いや」
目ざとくこちらの思惑に気づいたか。
夕澄は素早く懐に手を入れて抜きだし、指に挟んだ呪符をひらひらと見せてきた。夜叉月は仕方なく、発動しかけた眼力を解く。
「ちっ」
「おい」
「……いや」
「なんでもなくはなかっただろう!!」
夕澄がこちらに閉じた扇子を向けて喚いているが気にもとめず、夜叉月は大きく息を吐き出した。
なぜもっと早くに様子を見に来て、見舞いのひとつもしなかったのか。夜叉月はこの数日の自分に腹が立ってきた。
自分が行ったら休めないであろうと、余計な気を遣ったのが仇になった。
次からは柱の陰からでも毎日様子を見に来るべきだ、と狂気じみた考えに至る。
「あれ、夜叉月君」
夜叉月の後ろから、人の良さそうな声が聞こえて来た。振り返ると、店の主人が大きな壺を抱えて帰ってきたところだった。壺はすっぽりと顔を隠すほどの大きさで、店主はその陰から顔を半分出すのがやっとだった。
「親父殿、また何買い込んできたんだ?」
夕澄が呆れた様子で店主を見た。軽くため息をついてから扇子を帯に差し、代わりに壺を受け取る。
「あぁ、ありがとうよ、夕澄」
そう言って店主は夜叉月に向き直る。重たい物を運んでかいた汗を、首にかけた手ぬぐいで拭きながら、人のいい笑顔で夜叉月を迎え入れた。
「さぁさ、入ってくれよ、夜叉月君」
「親父殿、そいつを気安くそう呼ぶのはやめてくれ」
夕澄は結局招き入れてしまった夜叉月を不愉快そうに一瞥してから、壺を置く場所を模索し始めた。棚はすでにどこもいっぱいだ。
店主は聞こえているのかいないのか、夕澄の言葉など意に介さずに夜叉月を奥へ促す。
「何日か会っていなかったね、珍しいじゃないか」
「それは……」
夜叉月はすぐに言葉が出てこなかった。
ここに来られなかったのには、実はもう一つ理由がある。そのせいで、絢の父親である店主の前では少し気まずさがよぎる。
当然だが夜叉月は、まだ聞けていないあの日の絢の言葉の真相を一刻も早く知りたかった。
(絢は、自分のことを好いてくれているのだろうか)
今までの言動を鑑みて、それがどのような意味であれ、少なくとも「好意」は持っているはずだ。
だがあの日、酔い覚めとともに忘れてしまったかのような絢の言動が、儚くもその期待を打ち砕く。
(絢は、忘れたことにしたいのだろうか……)
悶々と考えた挙句、結局そんな結論にたどり着いてしまえば、夜叉月は途端に自信をなくし、絢と会って何をどう聞いたら良いのかも分からなくなってしまった。
数日経ち冷静になると、自分が無性に愚かに思えた。
(彼女の顔も見に行かずに、何を余計なことを考えているのか!)
それで今朝になって慌てて会いに来たというわけだ。結局、会えなかったのだが。
「ずいぶんと贅沢な悩みを持つようになったもんだ」
「ん?どうしたんだい?」
「……いや。こちらの話だ」
店主はそれ以上追求せずに、にこりと微笑んだ。
「さぁ、どうぞ」
店主は温かい茶を淹れて湯呑をひとつ夜叉月の前に置くと、自分も卓に腰を下ろす。
「夕澄、お前も座らないか?」
「……俺はいい。こっちの品の手入れでもしてるから、親父殿が相手してくれ」
「そう言えば夜叉月君、知っているかい?ここ最近ね、浅草や新橋で霊が出るって言うんだよ」
「……さぁ、聞かないな」
今日、店主はこの噂話を聞かせたかったらしい。夜叉月は茶を啜りながら適当に付き合うことにした。
耳をすませば、絢のいない店に響く風鈴の音はどこか寂しげで、夜叉月の胸に深く共鳴する。
「……それで?」
「しかも人に取り憑くらしいんだ。そうなれば、気が触れて暴れまわり苦しみながら最後は力尽きて死んでしまうと聞いたんだ。怖いよねぇ」
はっきり言って、霊や妖怪の類のものは探そうと思えばそこかしこにいるものだ。だが大概の者は弁えていて、人とは棲み分けている。敢えて人間を害そうなど、生前相当この世に恨みを持った者くらいだろう。
「そんなに頻繁に起きているのか?その悪霊の姿を見た者は?」
「それがいないのさ。最初は新たな病かとも思われていたんだけどね……。別人のように力も強くなるし、あまりに人格も変わってしまうから、霊の仕業だろうって噂になったのさ。この間も仲間の骨董屋の近くで出たって……夜叉月君も、夜道は気をつけるんだよ」
悪霊のことであれ何であれ、夜叉月は現し世の噂話には疎い。ここ最近、花街にも通っていないから尚の事だ。
何にせよ、ただの怨霊であれば気にも留めないが、人の身体を乗っ取って死に至らしめるとなれば話しは別だ。もし万が一自分のいないところで絢に何かあれば一大事。見過ごすわけにはいかない。
夜叉月は即座に指を立て、常磐堂の一帯を囲うように結界を張ろうとしたが―――別の結界にぶつかる感覚でわずかに指が跳ね返された。
「俺が絢のために何もしないとでも?俺の方が一瞬早かったな。愛の重さの格を知れ」
横を見れば、呪符を指に挟んでひらひらと揺らしながら、夜叉月を見下ろす夕澄がいた。
夜叉月が黒曜石を冷ややかに細める。
「あははっ!君たちがいたら絢は安心だ!なぁ、夜叉月君!」
「俺一人で十分だ!!」
店主の言葉を、すかさず夕澄が否定した。
「親父殿、本当にいい加減、その呼び方やめてくれないか?」
「なんでだい?いいじゃないか……それに……」
そこまで言って、店主がにこにこと夕澄を手招きする。盛大に息を吐きながら近づいてきた夕澄の耳元で、店主がこそこそと囁いた。
「夜叉月君はさ、すごくいい男じゃないか。絢をとても大事にしてくれそうだし。それに……絢もなかなかに気に入っているようだしね」
「……!!!」
店主は茶目っ気たっぷりに、ぱちんと片目を瞑ってみせた。夕澄は扇越しにも分かるほどに顔面を蒼白にし、愕然としている。
隠す気のなさそうなその内緒話は、当然夜叉月の耳にも届いていた。
「……親父殿」
「お前が呼ぶな!!!!」
顔では聞こえていなかったふりをしながら呟いた夜叉月の一言に、夕澄は涙目で睨みつけながら抗議の叫び声を上げた。




