第二十三章 夜叉月の恋煩い 【前編】
浅草の一戦を終え、住処に帰った夜叉月は、眠ることなくそのまま普段通りの朝を過ごしていた。水場で顔を洗い、身を整え、刀の確認をする。
でもどこか落ち着かない。
絢の口から聞いたあの甘美な言葉は、酒が言わせた幻想ではないのかもしれない。今すぐ絢に迫って確認したかった。
日が昇った。
(昨晩いろいろあった後だ。さすがに絢も店には出ていないだろう)
そうは思えど、そわそわと波立つ心が抑えられない。結局いないと思いながらも向かうことにした。
外の明るさを確認し、部屋の中で印を結ぶと夜叉月は部屋から姿を消す。
◇
常磐堂の前に降り立つと、店の中から聞き慣れた澄んだ声と、聞きなれない男の声がした。
「絢は最近も忙しそうだね。店と神社の手伝いじゃ大変だろう」
「栄太郎さん程じゃないわ。正式にお父様の跡を継いだのでしょう?すごいわ」
二人の口調は大変穏やかで、以前から親しい関係性が窺える。
「絢、年末あたりまた地方遠征があってあちこち行くから、お土産を持ってくる」
「そんな。気を使わなくていいのに」
「僕がそうしたいんだ。絢も年末は忙しいだろうから、落ち着いたら渡しに来るよ」
「ふふ、ありがとう」
店の外で会話を聞いていた夜叉月は、中に入る機を逃してしまった。栄太郎と呼ばれたその男はまだ帰る気はないらしく、絢との世間話に花を咲かせている。
聞いていると何だか腹が立ってくるが、気になって聞き耳を立ててしまうのも事実。
夜叉月は、トン!と軽く地を蹴って常磐堂のすぐ横に生えている木の上の枝に静かに降り立った。そこに腰かけると、格子戸から少しだけ中の様子が窺える。
顔は見えないが、卓に座る男の頭と、その隣で立ちながら話をする絢の着物が見えた。夜叉月は男の頭を穴が開くほど睨みつける。何か気配を感じるのか、男は時たま後頭部をさすっていた。
しばらくすると、通りの石畳を擦れる草履の音がして、それは常磐堂の前で止まった。夜叉月は中の監視で忙しく、そちらに見向きもしない。しかし、急に横から届いた声が夜叉月の邪魔をした。
「何してるの?」
子狐姿の小春が側にちょこんと座り、夜叉月の目線の先を追っていた。
「……あぁ。なるほどね。ふぅーん」
小春が知ったり顔を向けてきたが、夜叉月は気にせず中の会話に集中する。
「今までだってたくさんいたよ?絢姉ちゃん目当てのお客さん」
「……あれもか」
「栄太郎は、その中で最も手ごわい好敵手なんじゃない?」
夜叉月の目元がぴくりと反応する。
「彼は絢姉ちゃんの幼馴染。今をときめく出版印刷問屋の一人息子。傍から見れば彼が絢姉ちゃんに惚れてることは一目瞭然。あんたみたく直接的に表現しないから、絢姉ちゃんが気づいているかは分からないけど。少なくとも幼馴染みとしての信頼関係はできてる」
夜叉月は涼しい目元を崩さない。しかし、こめかみに浮かぶ青筋は隠せなかった。小春が意地悪そうにニヤリとこちらを見る。
「おじいさん同士が仲良かったみたいで、昔は絢の祖父も『絢と栄太郎を結婚させるんだー』ってよく言ってたわ」
「……なんだと」
夜叉月はようやく小春を正面に据えて、その顔を睨みつけた。小春は笑いを堪えているように口元をきゅっと結んでうずうずしている。何とも腹立たしい。
「最近はあんたが入り浸っているから、来なくなった客もいるよ。あんたが知らないだけで、絢姉ちゃんは昔から人気者なんだから」
「知らないわけがないだろう」
知らないはずがない。戸の外から絢をちらちら見ては、中に入ろうか迷う男どもの視線を、悉く跳ね除けていたのはこの夜叉月だ。
「へー。まぁ、あんたが居ないときに会いに来る客もいるけどね」
(命知らずな輩め。ならばやはり毎日来る必要があるな)
夜叉月が空を睨むように目を細めると、とうとう小春が声を上げて笑い出した。
「あー、おっかしぃ!で、あんたはいつまでこんなところにいるのよ?」
「静かにしろ。絢に気づかれるだろ」
「じゃあ私は行くわ!」
子狐はさっさと木を駆け降りると、ぱっと人間の姿に戻り、こちらに一度だけにやりと視線を向けて店に入っていった。
「絢姉ちゃーん!あ、栄太郎も久しぶりー」
「あぁ、小春も久しぶりだね。この間の遠征先で買ってきた栗羊羹があるよ。小春も食べる?」
「え?!食べる!一緒に食べよう絢姉ちゃん!大好き栄太郎!!」
(あの薄情者め)
これ以上あの男との時間を取り持つわけにはいかない。夜叉月も枝から飛び降り、衿を正してから店の格子戸を開けた。
チリリーン。
夜叉月が中に入ると、彼の呼び入れた風が風鈴を揺らした。気づいた絢が振り返る。夜叉月だと分かると、にっこりと微笑んで、お盆を持ったまま駆けてきた。
(今朝も愛らしいな)
絢の肩越しに、こちらをじっと見つめる栄太郎と目が合った。彼はいかにもな好青年で、夜叉月が現れようと好戦的な目を向けるでもなく、穏やかな表情で軽く会釈する。それに対し、夜叉月は目線を一度そちらにくれるだけだった。
小春は目の前の栗羊羹に夢中で夜叉月のことなど文字通り眼中にない。
「夜叉月!いらっしゃい」
名前を呼ばれ心躍らせたのも束の間、絢の笑顔を間近で捉えた夜叉月は一瞬で顔を硬直させた。さらに、眉根を寄せて目を凝らす。
絢の目の下に僅かだがくまが出来ていた。ほとんど寝ていないのだろう、目も少しとろんとしていて、表情の中に疲れが見て取れる。それは夜叉月でなくてはきっと分からないほどの、ほんの少しの変化。
夜叉月がじっと見つめていると、絢は抱えたお盆に顔の下半分を埋めて目を逸らした。
「今日はもう休んだ方がいい」
「え?……い、いいえ。今日は父も兄も出ているので、私が店番をしないと」
「なら私がしよう。何かあれば呼ぶからそれまで寝ていろ」
小春がぱっと反応し、挙手をする。
「絢姉ちゃん!私も!私も店番してるから、絢姉ちゃん休んでていいよ」
そこで栄太郎が立ち上がり、絢の背後からこちらに近づいてきた。絢の隣まで来ると当たり前のように絢の背に手を添える。
夜叉月は鋭く目を細めた。視界の端で、瞳を輝かせてこの様子を眺めている小春の姿が映る。夜叉月は無性に腹立たしさを煽られた。
「絢、今日は具合が悪かったのかい」
「ええと……そこまでではないのだけれど」
「そこまでだ」
夜叉月が低い声で絢の言葉を遮ると、絢の顔を覗き込もうとした栄太郎が動きを止めた。栄太郎は一度夜叉月を見上げて、困った笑顔を見せながら小さく息をつく。
「そうだね、絢。今日は休んだほうがいい。気が付かなくてごめん」
「い、いえ!栄太郎さんが謝ることは……」
「僕はもう行くよ。また会いに来るから。じゃあ小春。絢をよろしく頼むよ」
栄太郎は夜叉月にも会釈をし、そのまま店を去ろうとした。
だが最後まで余裕な彼の態度が癪に障った夜叉月は、栄太郎の背を視界に入れながら、敢えて絢へ言葉をかけた。それもとびきり甘ったるい声で。
「絢……昨晩は……無茶をさせて悪かったな」
その瞬間、栄太郎と絢と小春が三人同時に固まった!それから絢だけがみるみる顔を赤らめていく。
「……え?……えぇ?!や、夜叉月……」
何と言えばいいか分からないと言った様子で、瞳を大きく開けた絢は分かりやすく焦りだす。
戸の閉まる音がして、栄太郎は店を後にした。




