第二十二章 下界を映す蓮華の花弁
過去の真実に迫っていくーーー第三幕、開幕!
「ねぇ母上、あの話、聞かせて」
「もう寝る時間ですよ?」
「それ聞いたら眠るから!」
「……仕方ないねぇ」
むかしむかし、大江山に酒呑童子という恐ろしい鬼が住んでおりました。
夜な夜な都に現れては姫君をさらい、人々を苦しめていたのです。
困り果てた帝は、勇者らに鬼退治を命じました。彼らは、山伏の姿に化けて大江山に入り、鬼たちに「毒酒」をふるまいました。酒呑童子と手下どもはすっかり騙され、酒を飲み干して深い眠りに落ちました。
そこへ勇者が名刀を振り下ろすと、酒呑童子の首は見事に切り落とされ、都に平和が戻りました。
このとき鬼の首を切った太刀は「童子切安綱」という名刀でした。
その後、都の平和を願った人々の想いは、神となって刀に宿りました。
刀の神様は、その後も悪鬼を切って都を守り、その功績を讃えられ、いつしか仏界の護法善神となりました。
「刀の神様は今もみんなを守ってくれてる?僕のことも守ってくれるのかな?会ってみたいな!!」
「そうね。ふふっ……もうおしまいよ。そろそろ眠りなさい……真尋」
◇
―――仏界、金剛頂の殿。
白金や無限の虹色の輝きに包まれた蓮華蔵世界。
空間そのものが巨大な蓮の花であり、床下の透明な水晶の下には、三千世界の星々が砂絵のように運行している。
千重蓮華座に鎮座する大日如来を中心に、その周囲を多くの菩薩らが取り囲んでいた。
その一人、普賢菩薩の周囲を舞う無数の清らかな花弁。彼はその一枚を静かに目で追っている。そこには、漆黒の黒髪に黒曜石の瞳を持つ青年の姿が映し出されていた。
「また、かの刀神に御心を痛めておられるのですか、普賢尊者」
背後から、虚空蔵菩薩の声が届く。
彼の周囲は常に知識の波動である梵字が粒子となって渦巻いていた。
(目が疲れるから、あまり見たくはないのだが……)
普賢菩薩は、内心そのようなことを考えつつ視線だけちらりと背後に向ける。
「……いいえ大士。今はその逆です」
「……?」
「実は良いところでしてね。仏界に見放された哀れな子が、今まさに自らの力で光明を得ようとしているところなんですよ」
そう伝えて、普賢菩薩は再び花弁に視線を戻す。
虚空蔵菩薩は、目を閉じたまま呆気に取られたように口を開け、すぐに表情を和らげた。
「ふふっ。あなたらしい。実に楽しそうですね」
「そう見えますか?……でもまぁ、そうですね。あの子の宿命を見届けるのが、最後に手を差し伸べた私の役目ですから」
「お優しいのですね。ですが、また明王の怒りを買いませんように」
そう言われて、普賢菩薩が花弁から目線を外し奥を見ると、業火を背負った不動明王が乱暴に立ち上がり、地を割るような足音を響かせて殿の奥へと去っていくところだった。
「お気遣い感謝します。私はただ、己の愛と慈悲に従うまでですので」
(―――余計なお世話です)
心の中でそっと毒づくと、背後からその心を読んだかのような声が届いた。
「……私は余計なことを言ってしまったようですね」
◇
浅草寺での一戦の日、打ち鳴らされるはずのない天鼓が禍々しい鳴動を上げて殿に轟いた。
護法の危機が知らされ、その後すぐに護法童子たちが皆瀕死の状態で戻されたのだ。
殿にはざわめきとも、悲しみともつかぬ戦慄が走り抜けた。
絶対の秩序たる仏法の手先が、下界の刃によって退けられたのだ。
しかも今回は満を持して送られた仏法の守護者―――不動明王の直属の配下である護法童子達。
さらに、よりによって彼らをそんな状態にしたのは、あの羅刹ではなく、あのときの天女の生まれ変わり―――。
いよいよ予知の法の示す暗黒の未来が、音を立てて近づく気配を、皆が感じていた。
こうなれば、不動明王がいつになく焦り、怒り狂っているのも無理はない。
だが、普賢菩薩だけは相変わらず悠々と構えていた。
「法が絶対のこの世界で、法から外れた彼が生き延びている。興味深いではありませんか」
再び花弁を追いながら、半分独り言のように背後の虚空蔵菩薩に言葉を継ぐ。
(さあ夜叉月。お前はこのまま裁きの手に落ちるのか、それとも世界を滅ぼすのか……はたまた、ここにいる誰ひとり予想だにしない結末を見せてくれるのか―――)
あの羅刹の背負った業は、法則の矛盾であり仏法の論理の限界。
如来でさえあの羅刹―――夜叉月から目を背けることはできないのだから。
普賢菩薩の口角がわずかに上がる。周囲を舞う花弁が勢いを増し、より華やかに踊りだした。
時は満ちた。長きにわたる平行線は破られ、大きなうねりが押し寄せるだろう。
夜叉月……お前の存在意義を、お前自身で証明してみせろ。
この世界を―――法則を揺さぶれ!




