第十九章 浅草寺の夜宴―狂宴、天翔・夕澄・小春― 【前編】
夕澄を乗せた妖狐が本堂の前で足を止める。双尾が夜風にふわりと揺れた。
辺りは香炉から溢れ出る靄と、線香の匂いが立ち込めている。
本堂の巨大な朱塗りの柱が爛々(らんらん)と冴え渡る月光に濡れ、頭上に覆いかぶさる漆黒の大屋根は、闇そのものを呑み込もうとしているかのようだ。
夕澄は着くやいなや矜羯羅を乱暴に地面に放り投げた。
地に着く直前、額の呪符が縦に割かれ自由を取り戻した矜羯羅はくるりと身を翻して着地する。
「……罰当たりな男め」
「浅草寺舞台に大喧嘩を繰り広げるお前らの方がよっぽど罰当たりだろうよ、がきんちょめ」
「お前……誰に向かって……」
「お前だ!!」
静かに文句を垂れてきた矜羯羅に、夕澄は閉じた扇子をびしっと向ける。もう一方の手にはすでに数枚の札が挟まれていた。
「……さぁ、お前もそんなところに隠れていないでそろそろ出てこい」
再び口元を隠した夕澄が靄の立ち上る香炉に鋭い目線を送る。すると靄は左右に分かれ、薄くなった中心部から人影がゆっくりと姿を現した。
「我が名は、指徳。人間如きが、威勢の良いことだ。人間に手を掛けたくは無いが、我々の行く手を阻むというのなら仕方あるまい」
「こちらだってな、好きでこんなことやってるわけじゃないんだよ!威勢の良い妹を持つと兄は大変なんだ!」
妖狐が夕澄にすり寄るように近づいた。
「私も絢姉ちゃんを守るよ」
「お前も苦労するね、小春」
「そんなことない。絢姉ちゃんにはずっと助けられてる。恩返し出来るみたいで、嬉しい」
妖狐の毛色は、色素の薄い小春の色そのものだった。夕澄が頭を撫でてやると、小春は嬉しそうに双尾を振った。
「だけどね、小春。俺はお前にも危ない真似はしてほしくないんだ。お前のことだって、本当の妹だと思っているからね」
夕澄は、静かに数枚の呪符を足元に散らす。はらりと落ちた符を中心に地面が円形に切り取られ、その領域の中にあった靄が力強い風圧で押し出された。夕澄の周囲わずかな範囲から靄が消え去る。同じことが妖狐の小春のところでも起きた。
「小春、そこから出てはいけない。靄の中は、あの男の領域だ」
「うぅっ……狭い範囲で戦うの苦手」
「大丈夫だよ。ちょっと手伝ってくれるか?狐火を出しておくれ」
「分かった!狐火!!」
結界の中で小春が首を振ると、口から小さな火の玉がいくつも炸裂した!その狐火を追うように、夕澄の符が放たれる。
符がものすごい速さで狐火に追いつくと、符を食った火が業火のように勢いを増し、矜羯羅と指徳の双方へ向かって猛然と襲いかかった!
地面の一部で輝いた蓮華光がその火の玉を相殺し、もう一団の炎を香炉の靄が難なく呑み込む。
だが、それは一度では終わらない!次から次へと繰り出される狐火が炎柱となって押し寄せ、本堂の前は火の海と化した。
矜羯羅は跳躍してなんとか迫りくる火の檻から逃れたものの、袴の裾と袖が少し焦げてしまった。
空中で蓮華光を広げようと印を結ぶ―――が、術が発動しない!
「矜羯羅、背だ」
「……?!」
なんと、宙を飛んでいる間のどさくさに紛れて、背に一枚符が貼られていた!!
指徳が手をかざして焼き切るが、蓮華光が発動するより先に炎が矜羯羅を捉えた。
「ぎゃぁぁぁぁぁ!!!!」
炎が矜羯羅の右半身をあっという間に覆い尽くす。すぐさま指徳の繰り出した煙が矜羯羅を救い出したが、地面に転がり出た矜羯羅は蹲って悶絶していた。
「少し舐めていたようだ。もう容赦はせぬぞ」
指徳の低い声が響き、香炉から出る靄は一層怪しげに勢いを増す。
濃密となった暗雲が、小春と夕澄を符の結界ごと覆い被さっていきた。視界が遮られ、結界の表面に靄がこびり付くように這っている。夕澄は結界と靄の境目にぺたりと符を貼った。
すると、瞬く間に雲海のような靄が符に吸い込まれていった!あまりの勢いに、爆風が巻き起こる。
「狐火!!!!!」
靄が晴れてくると、すぐ側で狐火攻撃を連打する小春の姿があった。残念ながら、その狐火のほとんどは靄とともに符に吸い込まれていく。
香炉から立ち上がる靄は留まることはないが、それを上回った呪符のお陰で、辺りは一時的に視界が開けた。夕澄は先ほど靄を吸い込んだ札を丁寧に剥がし、懐へと収める。
「あぁ……それはなかなかに厄介な術具だな。まずはあなた方にそこから出てきてもらわなければならない、か」
指徳がそう言うと、再び立ち上がった巨大な靄が矜羯羅を包み込んだ。胸騒ぎを覚えた夕澄が即座に符を飛ばすが、竜巻のように旋回する靄に弾き返される。
ほぼ同時に小春と夕澄の真後ろの石畳が青白く光り出した。―――蓮花光。
何が起こるかは分からないが、夕澄の直感が「これはまずい」と告げている。
「小春!すぐに離れろ!!」
「きゃぁぁ」
振り返ろうとする小春目掛けて、夕澄は符を張った扇子を下から勢いよく扇ぐと、巻き起こったつむじ風が小春を浚い、吹き飛ばす。
その直後―――
「―――うるぁぁぁ!」
同時に蓮華光の上に突如現れた制吒迦が金剛棒を思い切り振りかざした。
ダァァァァン!!!
「ぐっ……はぁっ!」
一撃を一身に浴びた夕澄が弾け飛び、参道脇の太い木に激突した!夕澄の張った結界は術を遮断するものであったため、圧倒的な物理攻撃には為す術なく崩れてしまったのだ。
「……残念だな、二人まとめて叩き潰すつもりだったんだが」
制吒迦は、木の根元で動かなくなった夕澄を一瞥だけしてくるりと向きを変えると、吹き飛ばされた小春の方へと進み出た。




