第十七章 浅草寺の夜宴ー開宴ー 【前編】
ひと通り夜叉月を弄んで満足した絢は、いつの間にかすやすやと眠りについてしまった。
(まったく……人の気も知らないで)
夜叉月は今日の用と挨拶をさっさと済ませ、絢を抱きかかえて店を後にした。
もう少しこのままでいたい気もしたが、冷え込む夜風に絢を晒してはいけない。名残惜しさを振り払い、夜叉月は印を結んで一瞬にして空間を飛んだ。
彼が消えたその場所には、花弁が舞うように青銀の光がちらちらと煌めいていた。
常磐堂のあたりまで来ると、まだかまだかと絢の帰りを待ち構えていた夕澄が、夜叉月に抱えられた絢を見て顔を白くし、扇子を落とす。
その後、引ったくるように絢を奪った夕澄に、散々捲し立てるように責められた。夜叉月はまだ夢見心地だったので、絢の寝顔を見つめ、幸せな気持ちを噛み締める。
だが最後はバタン!と怒りまかせに戸を閉められてしまった。
◇
夜叉月が常磐堂の裏通りから一本曲がったところで再び印を結ぼうと指を立てた、その時―――
「今日も、何かいいことありました?」
今、最も聞きたくない声が頭上から降ってきた。
先の長屋の低い瓦屋根の上。一人の童子が、夜空の月を背にして、片足を立てて座り込んでいる。逆光で顔には深く影が落ちているが、瞳の翡翠だけが輝いて闇に浮かび上がっていた。輪郭だけを縁取る月明かりが、絹糸のような童子の銀髪を煌めかせる。
童子は口角だけを不自然に上げただけの、感情のない表情で夜叉月を見下ろしていた。
「……そんな日に、僕なんかがすみません」
「……まったくだ」
「ふふっ、正直だなぁ」
雪は可笑しそうに声を上げるが、もちろん翡翠は少しも笑っていない。
「これでも―――あなたにぴったりの最高の日を選んだつもりですよ、ほら」
(最悪の日の間違いだろ……)
身体を捻って、背後を高く見上げる雪の視線を追えば、今日は見事な満月だった―――。
雪が振り返り笑みを深めると、翡翠の中に一瞬光が走り、夜叉月の足元が円状に切り取られた。円の輪郭から銀の光が浮かび上がり、その中で巻き起こった風が瞬く間に夜叉月を攫う。
裏通りにはすぐさま静寂が戻り、夜叉月と雪が跡形もなく消えた。
大きな月が不気味にあたりを青白く照らしている―――。
雪に連れられ、やって来たのは浅草寺。
昼間の熱狂と香煙の渦が嘘のように引き去り、夜半はまるで深い底へと沈み込んだ異界の様相を呈していた。
「……結界はお前たちの方で張っておけよ」
「ええ、抜かりなく」
仏界のいざこざに現し世の者達を巻き込むのは御法度だ。お互いにその辺は弁えている。
夜叉月はあたりをひと通り見渡した。
月を背負った漆黒の夜空を刺すように高く聳え立っている五重塔は、その影を長く伸ばし、まるで黒い刃となって境内の敷石を深々と切り裂いている。
その塔の頂上に、二つの影。
ことごとく閉ざされた仲見世の格子戸。その壁面に寄りかかる影が、また一つ。
本堂へと続く石段の下、常香炉の佇む暗がり。とっくに火の落とされているはずの香炉から、月明かりのような青白い靄が上がっている。その煙の奥に、さらに一つ。
いつの間にか雪の背後にも二つの気配が加わり―――
「全部で七人……か?」
「流石です」
「ずいぶん盛大に迎えてくれたものだ。明王もだいぶ焦っているようだ」
(……これは、なかなかに苦労しそうだ)
カタカタと音を立て、童子切の中の真尋はやる気満々で臨戦態勢を整えている。
風がやみ静寂が最高潮に達すると、雪が濡れた石畳をタンッ!と蹴って、宙返りしながら大きく後に跳ね上がった。
雷門の上に片膝を着くように降り立った雪の袖と髪が、ふわりと舞い上がる。
ゆっくりと立ち上がり、顔を上げた雪の翡翠が、光を宿して闇夜に妖しく揺れる。
「―――さぁ、始めましょう」
その声と共に、門の下、厳かに佇む大提灯の奥で、赤々とした火が爆ぜるように灯り、暗闇を破った!
「こんな夜更けに……派手なものだ」
さてどこから片付けようか、と夜叉月の涼しい目元がそれぞれ順番に気配を辿ると、高く聳える塔の上で動きを見せた気配が一つ。
「お前からやるか?……矜羯羅」
矜羯羅が静かに合わせた掌から放たれる、水面のように透き通った紺碧の蓮華光。
その冷たい光が石畳を這い、本堂の巨大な朱柱や五重塔の初層を真下から照らし出す。そこに、鮮烈な朱が浮かび上がった。
「いや、先に行くのは俺だ」
矜羯羅の隣で、身の丈ほどの金剛棒を肩に担いだ制吒迦が飛んで、真っ直ぐに落ちてくる。飛んだ瞬間の軽やかさとは逆に、ドシィィンと音を立てて地に足がめり込むほどに荒々しく降り立った。
「……制吒迦、壊すの禁止」
「分かってる」
塔の上から呟くような矜羯羅の声は、制吒迦にしっかり届いていたようだ。
制吒迦が金剛棒を打ち鳴らす度。石畳の上に散り散りになる琥珀色の火花が弾けた。
冷たい碧の光の海と、足元で跳ねる黄金の残り火。
(まるでお祭り騒ぎだな)
この童子たちは、不動明王の(ふどうみょうおう)眷属である。この千年、夜叉月はこれだけの実力者たちをまとめて相手にしたことはない。明王も主要な配下を一気に失う恐れがあったからこそ、長期戦になろうとこの切り札を使うことはなかった。
だがここにきて使ったということは、やはり―――
「予知の法……か」
手を抜く選択肢はないな。
夜叉月が素早く童子切を抜くと同時に、制吒迦は金剛棒を振り上げて、弾丸のように夜叉月目掛けて真っ直ぐに向かっていく。
夜叉月の指が刀身を撫で、切っ先を制吒迦へ静かに向けた。
「蒼月よ―――疾走れ」




