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第十六章 酔いの泡沫 【後編】

 案内された座敷に、女将が布団を敷いてくれた。

 夜叉月は絢を丁寧にそこへ降ろしてやる。


「すまなかった、女将」

「いいえ、とんでもございません。ごゆっくりなさってください」


 夜叉月は、眠る絢の隣に腰かけ、布団をかけてやった。


「……んっ」


 絢が薄っすら目を開けた。ぼんやりしているようで、ゆっくりと瞬きしながら、あたりを見回している。


「水でも飲むか?」


 そう問いかければ、酔いで少し潤んだ瞳が夜叉月を見上げた後、こくんと頷いた。


(―――これは、毒だな)


 夜叉月は困ったような笑みを浮かべて、水の入った湯呑を絢に差し出す。

 絢は起き上がって、夜叉月から受け取った湯呑をくるくると回して手遊びしながら、ちびちび飲んでいる。

 先ほど勢いよく盃を仰いでいた時とあまりに違う絢が可笑しくて、夜叉月はふっと吹き出してしまった。


「夜叉月?」

「……ん?」


 絢が夜叉月を呼ぶ。最初は、笑った理由を問うように。


「夜叉月ぃ」

「……なんだ?」


 二度目は、へらへらと笑いながら。


「夜叉月」

「……はい」


 三度目は、少し真剣味を帯びて。


「夜叉月―――」


 四度目は―――


「――――好き」


 愛の告白とともに。


「……っ!」


 そのまま、絢は夜叉月の胸へ勢いよく飛び込んだ。綺麗に抱きついたと言うよりは、雪崩込(なだれこ)んだに近い。

 夜叉月は、あまりの不意打ちに力が入らず、そのまま絢に怪我をさせないように抱きとめながら、自分が下敷きになるのがやっとだった。


「あ、絢っ!?」


 絢の持っていた湯呑は、哀(あわ)れにも畳に放り出されて転がったが、幸い中身はすでに空っぽだ。

 

「夜叉月の心臓、はやぁい」


 絢はすこぶる上機嫌だった。人の胸の上に耳を押し当て、呑気なことを言いながら足をパタパタさせている。こちらは、それどころではないというのに!

 夜叉月はとにかく鼓動を落ち着かせようと、大きく深呼吸する。


(さっきの言葉は幻聴だったのか?)


「絢……さっき……」

「ねぇ、夜叉月。あなたにとって私って特別ってこと?」

「……当然。唯一無二の特別です」

 

 もう一度大きく息を吐き出してから、夜叉月は額と目を腕で覆う。どうにでもなれ、という気持ちで、絢のしたいようにさせることにした。

 絢は夜叉月の帯にささる簪に指先で触れ、雫を揺らしながら鼻歌を口ずさんでいる。


「ふふっ」


 次は胸の上についた腕に頭を乗せ、にこにこ笑いながら夜叉月を見上げてきた。腕の隙間から盗み見ていた夜叉月を逃がすまいと、至近距離で覗き込んでくる。いつもはただただ愛らしいその顔が、この状況では優しくて愛らしい悪魔にも見えてきた。

 観念した夜叉月は、その愛らしい悪魔の頬を指の背で撫でてやる。


「はぁ、絢。あなたって人は……」

「ねぇ、夜叉月。あなたに心を奪われる人は他にもたくさんいるのでしょう?」


 なぜか急に不満げな顔になった絢が、愛らしくもそんなことを聞いてくる。


「ん?どうかな……例えそうだとしても、私が心を奪われたのは、あなただけ」

「ふぅん……」


 絢は整った唇を軽く尖らせ、夜叉月の胸の上でそっぽを向いている。

 何がそんなに不満なのだろうか?何にせよ、ころころ変わる絢の表情が可愛くて、可笑しくもある。散々自分だけやられっぱなしだったので、夜叉月に少し悪戯心が芽生えた。


「……ねぇ絢?さっきの、『他にも』ってどういうこと?」

「え?」


 夜叉月は胸の上で重ねられていた絢の両手を片手で掴み取ると、意地の悪い笑みで彼女の耳元に近づき囁いた。


「―――絢も、私に心を奪われたってこと?」

「――っ!!!」

 

 顔を耳まで一気に赤く染め、絢が潤んで揺れる瞳を見開いている。


「私は……私は、好きって言いました!」

「……」


 仕返しのつもりが、返り討ちにされた。最初の「好き」は有効だったようだ。

 夜叉月はいよいよ目眩(めまい)がしてきた。


(酔っているのは私か?これは本当に現実か?)


「絢……それは、どういう意味?」

「え?」


 熱を宿した黒曜石の瞳で彼女を真っ直ぐに射抜く。自然と声が縋(すが)るような切なさを帯びた。


「あなたに触れても……いいって意味の『好き』?」


 夜叉月は彼女の背中を包みこみ、くるりと寝返りをうって優しく組み敷く。

 両肘をついて少し距離をとったまま、柔らかい彼女の頬を撫でていると、彼女はその手に自分の手を重ねた。そのまま夜叉月の手を取り、彼の手の内側に口付けた!

 

「……っ!」


 その非現実的な光景に頭がくらくらする。


「……絢っ」


 彼女は焦る夜叉月の頬を両手で包み、頭を浮かせて、今度は彼の唇に口付けを落とした。


 ―――ぷつん。


 息もできないくらいに張り詰めた感情が、堰(せき)を切ったように溢れ出す。

 今度は彼女の手に自分が手を重ね、彼女がしたようにその掌に口付けた。しかし、夜叉月の黒曜石はその間も彼女の瞳を捕らえ続けている。


「っ!」


 耐えきれなくなったのは彼女の方で、切なげな目で顔を背ける。


 ―――逃がさない。


 夜叉月はすかさず追うようにして唇を重ねた。


 彼女から香る白檀(びゃくだん)の香りは、いつにも増して甘く、夜叉月の脳内を痺れさせる。

 何度かの軽い口付けは、角度を変えるうちに徐々に深まっていった。


「ん…ふっ」


 いつの間にか夜叉月の背に回された彼女の手は、だんだんと必死さを増し、ついに縋(すが)るように夜叉月の服を握りしめる。


 あぁ…堪(たま)らない。


 必死に応えようとする彼女が愛しくて、もっと欲しくて、さらに追い詰めてしまう。夜叉月は彼女の頭の後ろに手を添えて、引き寄せると一瞬彼女の白い首元があらわになった。熱に浮かされ、思考が飛ぶ。息する間も与えないほど深く攻め立てていく。


「はぁっ…やしゃ…づき…」


 合間に彼女が自分の名前を紡いだ。自分の名前はこんなに美しかったであろうか。歯止めが完全に効かなくなる程、のめり込みそうになった時―――

 

 白檀の甘さに混じって、微かな酒の香りを嗅ぎ分けた。


(そうだ……今、彼女は酒に酔っている……。これ以上は……だめだ)


 大切な彼女を後悔させるわけにはいかない。最後の理性をなんとか手繰(たぐ)り寄せる。


 顔を離すと、こちらの気など知る由もない絢が、誘うように潤んだ瞳を覗かせながら、薄く口を開いている。夜叉月は、爪を立てるように拳を握りしめた。

 紅潮(こうちょう)する彼女の表情を惜しむように眺めてから、ぼふっ!と彼女の頭の横に顔を埋める。


 彼女の上下する胸の鼓動や、耳元に届く荒い息づかいに再び理性を持っていかれぬよう、拳に一層力を込め、目をきつく瞑った。


(煩悩よ……去れ!頼む!)


 しばらくそうして、心をなんとか落ち着かせてから顔を半分だけ横に向けると、待っていたとばかりに彼女のにっこりとした笑みに出迎えられた。


「っ!」


 逃がした熱が即座に再集結する!あわててもう一度布団に顔を埋める。

 楽しそうに鼻唄を口ずさみながら、夜叉月の髪を撫でたり、梳(と)かしてみたりと弄(もてあそ)ぶ。弄ばれているのは、髪なのか夜叉月自身なのか。


 やはり、こちらが何年生きようが、あなたには、一生敵わない!

 耳元で満足そうに歌う彼女の音色を感じながら、ふと、自分がこのまま明日にでも消滅してしまうのではないかと思わずにはいられなかった。


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