第一章 黒曜石の瞳と文明開化の闇夜 【後編】
きらびやかな西陣織の帯を締め、美しい柄の友禅を纏った売れっ子芸姑が、夜叉月の隣に腰かけ、艷やかな所作で酒瓶を取る。
ふわりと袖口から揺れる白粉の香しい匂いと、焚かれた高級な香の煙が混ざり合い、客を甘く誘う。
普段なら、粋な冗談の一つも飛ばして座敷を沸かせる姉さん芸姑も、夜叉月の凛とした佇まいの前には、ほんの僅かに息を詰まらせ背筋を伸ばした。新人芸姑ならなおさらだ。皆僅かな緊張の色を隠せない。
「お久しぶりですね。大旦那様。今夜のお目当ては小春でしたね。舞や三味線も上達が早くて、自慢の妹分なのよ。気に入るといいわ」
「……あぁ」
そう紹介された直後、すーっと静寂を誘うように襖が開き、畳に深く頭を下げた小柄な娘、小春が現れた。
結われた色素の薄い頭がゆっくり上がり、切れ長の目が夜叉月を捉えた。まだ初々しさが滲む澄んだ瞳は新鮮で、裏腹に、真っ赤な紅をひいた唇は大人っぽく妖艶さを帯びて美しい。
普通の男なら、見とれて思わず手を伸ばしてしまってもおかしくはない。
だが、夜叉月はいつも通り涼しい目元を崩さずに、注がれたばかりの酒を、盃を揺らしながら静かに眺めている。
小春は、三味線を構え、背筋を伸ばす。
堂々たる風貌で前を見据えたまま、シャン!と絹糸を軽快に弾いた。
夜叉月はそこでようやく面を上げた。
その瞳に捉えられた小春が、小さく息を飲む。
だが彼女は一度の瞬きのうちに纏う空気を整えると、鮮やかに手を捌いて音を奏でる。
そこから紡がれる繊細で甲高い音色は、彼女が今しがた切り裂いた静寂を、自ら透明感と澄んだ空気感に塗り替えていく。
彼女の立ち振舞は一つ一つが美しく、十分な清らかさを放っている。芸の技術も目を見張るものがあり、誰から見ても上等だ。
成長著しい、清らかで、美しい芸姑。
芸姑としてはそれで十分なはずだ。だが夜叉月にとっては、「それだけ」だった。
夜叉月は彼女に対する興味を失ったように、視線を盃に戻す。
(まぁ、いつものことだ)
今宵も、彼の浅はかな期待はあっけなく打ち砕かれ、彼は手にした盃を少しだけ見つめた後、それを一気にあおった。
「好きに飲んでくれ」
夜叉月がそう言って、空になった盃をカツンと卓に戻したのを合図に、芸姑たちの間に張り詰めた空気がぱっと和らぐ。新人の中には思わずよろけそうになり、姉さん芸姑に支えられて連れていかれる娘までいたほどだ!
彼女たち、ひいては夜の街の連中は、この美しく上等な客が、いまだ見つからない誰かを探し求め、夜の街をあちこち転々としていることを知っている。
あの品定めのような時間は、彼自身から発せられる無言の焦燥感も相まって、一番張り詰めること。
それが終われば、彼は芸姑になんの興味も示さず、ただ金を落として皆を自由にさせてくれることも。
小春は、三味線が終わると、静かに夜叉月のとなりに座った。
彼女目当てで来たはずなのに、夜叉月は芸には目もくれず、隣にいても何の興味も示さない。かなり失礼な客であるはずなのだが、小春も特に気にした様子はない。
「悪かったな」
夜叉月は目線も合わせずその一言だけを口にし、再び無言で酒を仰ぐ。
「……いえ」
小春は短く答えるだけだった。
姉さん芸姑―――花代が夜叉月の空いた盃に酒を注ぎながら、会話を紡ぐ。
「大旦那様、早く会いたい誰かを見つけられるといいですね」
花代にとっては、こんな夜叉月の姿は見慣れた光景だった。
夜叉月はいつも目当て以外にも何人もの芸姑を呼ぶ。新人以外で彼の座敷につけるのは、彼の美貌を見ても、変な気を起こさない達観した芸姑だけだった。この界隈でそれは中々に貴重な存在だったので、彼女はもう何度も夜叉月の座敷についていたのだ。
「その方は、きっと幸せだわ。」
「……」
夜叉月は、手を止めて、ふと考える。しばらく考えた後、「……そうだろうか」と自信なさげに呟いた。
「あら……。あらあら……」
花代は珍しい夜叉月の姿に目を丸くした後、手を口元に当てて愛らしいものを見るように視線を和らげた。
(私に見つけられることが、あなたにとって幸せなのだろうか)
尋ねる相手のいない問いが、夜叉月の胸の奥で重く沈む。
数百年、彼女を探し続けることだけが夜叉月の全てだった。
ふと、過去の情景が思い出される。前に二度、夜叉月が彼女を見つけたときの、どうにもできなかったあの記憶がーーー。
夜叉月の黒曜石が切なく光を失う。
本当は、何も知らず、ただ今生を全うする方があなたにとっては―――
そう思わずにはいられない。問い出せばきりがなかった。
「……どうだかな」
指先で傾けた盃の中で揺れる水面に、夜叉月は自分の姿を映す。漏れた呟きはあまりに低く、頼りない。
幾千の怨霊や刺客を斬り伏せてきた刀神の顔とは到底思えない。彼の表情からは冷徹さが消え、そこにはただ、一途すぎる想いに迷う一人の男の顔があった。
だがどんなに迷おうと、彼女を諦めるなんてことが出来るはずもない。
花代は少し困ったように眉を沈め、また次の瞬間には、慈しみをたたえた笑みをこぼす。
「ふふっ。大旦那様ともあろうお方が、好いた女の前では弱気だなんて可愛らしいことですね。でも安心してください。女はね、一途に思われて嫌な気なんかしないわ」
「……」
それ以上、夜叉月は何も応えず、味の感じなくなってしまった酒を、夜が更けるまでただ飲み続けた。




