第一章 黒曜石の瞳と文明開化の闇夜 【前半】
カチリ、と鯉口が鳴る小さな金属音だけが、冷えた闇の中に響いた。
深黒の袴と外套を纏った男―――夜叉月は、足元に転がる刺客の骸を一瞥することもなく、刀を滑らかに鞘へと納める。
日没の残光すら消え去った夜の深い暗闇の中、今まさに仏界からの刺客を斬り伏せたところだと言うのに、彼の涼しい目元が乱れることはない。
(……今頃、明王は自分の配下を斬られて、怒り狂っているだろうな)
夜叉月はあの厳格で少々強引な仏界の法の番人、不動明王の迦楼羅炎を思い浮かべた。
彼は飽きずに次から次へと刺客を放っては、この千年夜叉月を追いかけ回している。だが、かつての「最強の護法善神」を討ち取れる者がそう簡単に現れるはずもない。
……そろそろ諦めてくれれば良いものを。
夜叉月は先程切り捨てた男たちを一度だけ見て、軽く息をつく。
裏通りの静寂の中を再び歩き出す頃には、先ほどの戦闘で僅かに上がった呼吸もあっという間に落ち着きを取り戻していた。この男に切られた刺客は、そのまま魂ごと暗い霧となり、闇夜に溶けて消えた。
―――この男は、美しい。
夜叉月の浮世離れした美しさは、月明りの下では一層洗練された。
前髪から覗く鏡面のような黒曜石の瞳は月の明かりを反射し、妖しく光を纏っている。
艷がかって薄く整った口元は色気を孕み、流れるような黒髪は彼の白磁の肌を際立たせる。
月明かりの中で一歩踏みしめる度、彼の周囲に散りばめられた青銀の光の輪郭が、幻のように揺らいでは消え、まるでこの世のものとは思えない。
路地裏の軒先にポツリと揺れる行灯が、夜叉月の足元を淡く橙色に包みこんでいる。
夜叉月は、この紙張り行灯の明かりが好きだった。低い位置からの柔らかい光が、裾を撫でる様子を、どこか穏やかに見つめている。黒曜石の瞳にも同じ光が灯り、それは歩に合わせてふわりと揺れた。
彼の美しい眉間や、普段は冷たさを感じさせる目元が、和紙越しの光によって一層妖しく、美しく浮かび上がる。
夜叉月はもうしばらく、この静寂に揺らぐ淡い光をただ愉しんでいたかったが、そうもいかなくなってしまった。
「刀神様ぁ、夜叉月様ぁ!暗くて怖い!助けて!助けて!!!」
「……っ!」
頭に響く声とともに急な痛みに襲われ、夜叉月は思わず目を細め、着物の合わせのあたりを片手で握りしめる。そのまま倒れ込むように壁にもたれかかった。
夜叉月の黒曜石の瞳が苦痛に歪む。
(あぁ……夜泣きの時間だな)
刀がひとりでにがちゃがちゃと音を立てていた。
刀には、実体のない鎖が何十にも巻かれ、雁字搦めになっている。そしてこの凍てついた「輪廻の鎖石」は、刀だけでなく、夜叉月の魂をも締め上げていた。
「夜叉月様ぁ!夜叉月様ぁ!」
「あぁ……大丈夫だから。落ち着け、真尋」
夜叉月は、自分にしか聞こえないその声に向かって、宥めるように言った。
輪廻の鎖石に宿るこの童子の怨霊の悲嘆はこの数百年間、一日たりとも止んだ日はない。
気持ちの高ぶった童子―――真尋は、現し世の人間には見えぬ、実体のない姿を現し、夜叉月の首に腕を巻き付けた。
「夜叉月様なんて、大嫌い」
七つにも満たないような真尋は、見た目の齢に似つかない悲痛の表情で夜叉月に訴えるように喚いていた。
声の大きさに比例して、真尋の腕に力がこもる。それは縋るようでもあり、怨念を込めて絞め殺そうとしているようにも見える。
「僕のことなんて、僕のことなんて……!」
「くっ……」
首元に伝わる圧迫感に、整った唇からくぐもった呼吸が漏れる。夜叉月の首元を容赦なく締め上げるそれは、到底童子の力とは思えない。
慣れた痛みではあるが、細められた黒曜石の瞳にはまだ歪んだ青い光が揺れ、額にじとりと滲む汗は勢いを止める様子ないし、整然と閉じられた妖艶な唇の向こうでは、奥歯に込められた力が少しも緩んでいなかった。
だが、夜叉月は抵抗することなく、童子の思うようにさせた。
浮世離れしたその美貌が苦痛に削がれる様は、凄惨なほどに妖しく、美しかった。
しばらくそうして耐えた後、夜叉月はとうとう眉根を寄せて舌打ちした。
「真尋、いい加減少し黙ってろ」
夜叉月は乱暴に吐き捨てると、真尋の姿は、はっ、とより一層悲痛に表情を歪め、瞬時に霧になって消えた。
ふぅ―――っ
息苦しさは消えたが少しも楽にはならない胸元の衣を固く握りしめたまま、大きく息を吐く。
少しずつ楽になってきたので、夜叉月は着物を整えてから足早に歩を進めた。
「夜叉月様が僕に怒ってる。悲しい。怖い。」
真尋の声はやや小さくなったが、それでも恨みがましく泣き続けていた。
◇
夜叉月は、花街に向かっていた。
筋のいい新たな芸姑が現れたと、昼間に料理屋の女将が太鼓判を押して騒いでいたのだ。
しばらく歩くと、闇の深かった路地の先から、不協和音のような音が混ざり始める。
カラン…コロン…カラン
どこか落ち着きなく行き交う人々の話し声や足音。それに重なる、馬車の鉄輪が石を削る重く甲高い音やガタゴトと響く人力車の車輪の音。
路地の出口が近づくにつれ、闇は急激に薄れていく。角を曲がった先にあるのは、新時代の文明を気取る人間たちが蠢く、明治の大通り。
東京の中心部は江戸時代の面影を残しつつ、西洋の新しい文化や建築が混在しはじめた。
―――「文明開化」
明治政府の政策のもと、特に主要な大通りや商業地区では、防火対策と西洋化のため、あちこちで煉瓦造の建物が建ち並んでいった。
暗がりからギラギラしたガス灯が照らす明るみの下へ―― 彼が影から姿を現した瞬間、街の喧騒がふっと遠のく。
すれ違う誰もが言葉を失い、息を呑んで振り返った。
月光を宿したような黒曜石の瞳の男に、人々は吸い寄せられるように視線を奪われながらも、誰ひとりとして近づけない。彼の周囲だけまるで時が止まったかのように冷たく、侵しがたい神聖な闇が漂っている。
「はぁ…」
羨望と熱視線の渦を切り裂くように、夜叉月はただ小さく冷たいため息をこぼした。
夜叉月は、袖にそれぞれ反対側の手を入れて腕を組み、目的地へと歩みを進めた。
浅草の黒塗りの塀が続く路地へ足を踏み入れると、夜の街がにわかにざわつき始める。
「まぁ、大旦那様!今夜はどちらへお運びで?」
「旦那、うちの料亭の奥座敷、一番いい部屋を開けてございますよ!」
暖簾の陰から、格子戸の隙間から、色とりどりの着物を纏った芸妓や置屋の女将たちが、競うように声をかけてくる。
それらには目もくれずに、夜叉月はただ片手を上げるだけで断りの意思表示をした。
袖を引かれ、手首を取られそうになるたび、彼は身をすり抜けるように交わしながら、ただ黙々と石畳を歩く。
「あーあ、また振られちゃった」
「当たり前でしょ、大旦那は、あんたなんかお呼びでないの」
「そうよ〜、大旦那は新しい子が好きなんだから、あんたみたいな古株、お呼びでないの」
「何よ、私の舞だってなかなかだと思うけど。はぁ、遠くで見ているだけでもいいから、お座敷に呼んでくれないかしら」
笑い混じりの軽口が聞こえてくるが、夜叉月は意に返さない。
太鼓持ちが飛んで前を払い、料亭の若い衆が提灯を掲げて駆け寄ってくる。
街全体が、彼という莫大な富と異彩に群がり、手繰り寄せようと手を伸ばす。
だが、どれほど華やかな声に囲まれようと、彼の視線は揺るがない。
そうこうする間に、本日のお目当ての料理屋にたどり着き、夜叉月はピタリと歩を止めた。店女将が飛んできて、満面の笑みをたたえ、待ち構えていたとばかりに出迎える。
「まぁ、旦那様!お待ちしておりました!どうぞお座敷、ご準備整ってございます」
案内された二階の奥座敷。
行灯や燭台の温かな灯りが、朱漆の美しい座卓や金屏風に柔らかく反射し、部屋全体が眩いほどの華やかさに満ち溢れている。
磨き上げられた黒漆の柱や格子が絢爛な部屋の空気をぐっと引き締め、畳に敷き詰められた朱色の毛氈が映え、空間そのものが色香を孕んでいるかのようだ。
「お召し物、お預かりいたします」
夜叉月は黙って丁寧に羽織を手渡し、上座へ静かに腰をおろした。




